石の嫁ぎ先

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上野東照宮の大鳥居

  「中略・・・上野の東照宮へお参りをしました。参道の石製の大鳥居に備前の国から調達された旨が刻まれておりました。もしや犬島からの石材ではないかと思った次第です。」と5年前に元岡山市教育長で現岡山商大附属高校長の戸村彰孝氏からお便りを頂き早速上野公園を訪ねました。
  西郷さんの銅像を横目に見上げ広い園内を東照宮を目指しました。参道には諸国の大名が奉納した数多くの石灯籠が並んでいます。その正面に優雅な姿で明神鳥居が立っていました。石肌に触れて「あなた何処からお嫁に来たの?」と尋ねてみましたが答えてはくれません。
  お手紙にあるとおり正面右の柱石に「奉寄進石華表一基東叡山 東照大権現實前 得鉅石於備前国迎慈南海運千當山 陽推而奉建」と刻字がなされており、備前の国から運ばれて来たものです。
  この東照宮は寛永4年(1627)に藤堂高虎が上野の自分の屋敷に造営しました。しかし、将軍家光は気に入らず慶安4年(1651)に江戸の象徴「金色堂」として再建しました。
  鳥居は寛永10年(1633)に酒井雅楽頭忠世が寄進したものですが、その後何かの事情により天和年間に地中に埋められました。
  50年後の、亨保19年(1734)に忠世の孫酒井忠知が掘り起こし元の位置に立て直しました。 どのようないきさつがあって埋められていたのでしょうか?
  秘められたロマンがあるのでしょうか。
  この鳥居と出会ってから今までずっと犬島産であるとの文献がないかといろいろと探し回っておりますが調査不足で未だに見つかっていません。
  石肌の感触はまさしく犬島の石ですが、やや黒っぽい色をしています。これは50年もの長い間地中に埋められていたためだと思われます。
  酒井雅楽頭忠世が上野の東照宮に犬島の石を使った鳥居を寄進(1633)して以来、備前の国犬島の石は大変良質であると広く天下に認められ、その後静岡の浅間神社(1634)、仙台の東照宮(1645)、そして鎌倉の鶴岡八幡宮(1668)の鳥居に使われたのだと確信に近い推測を凝らしています。
  笠木に反りをつけ、柱の麓をやや開き豪壮で安定感のある鳥居は、関東大震災の時にも微動だにしなく建築界でも驚異の的となったそうです。
  犬島の石であることの証が見つかり、私の心が一日でも早く安らぐことを切に願っております。

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