石の嫁ぎ先

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和意谷の墓所「池田光政が京都から改葬」

 岡山藩主池田家の墓所が岡山県備前市吉永町和意谷の敦土山にあります。
 池田光政が寛文7年(1667)祖父輝政、父利隆の2人の遺骸を京都妙心寺護国院から備前市吉永町和意谷に運ばせ、津田永忠に命じて改葬させました。その墓所の基石や玉垣はすべて犬島産の石で作られているというので、訪ねて見ました。敦土山は大きなお山で一のお山から七のお山に分けてお墓があり、延々2キロメートルを越える参道には踏み石がずっと敷かれていました。
 4、50分も一気に歩き続けると、やっと玉垣が見えてきました。輝政の墓は台座が亀の形になっており、この形は備前焼の陶工がまず原形を作り、それを石工が彫ったそうです。
 犬島から片上港まで海上輸送をしてそこからは延べ11万人の人の力で39日間かかって山上まで引き上げたと「和意谷御墓出来之記」にその当時の様子が細かく記されています。少し抜粋しますと「和意谷御用御石犬嶋にて荒切り仕候事 寛文七末の正月十七日より中村太郎右衛門新谷孫七為奉行犬嶋江渡海仕り御鉄石切りにて同年四月十九日迄に荒切り出来仕候・・・(以下略)」と延々と書かれています。
 石の寸法なども「犬嶋にて切立候荒取り御石之覚」として、輝政侯の墓碑の亀石の寸法など細かく記されています。
 かかった費用は銀にして208貫とか、今のお金に換算してざっと3億4千万円位になるのでしょうか。山深いこの地に聖地を求めた岡山藩主の墓所への思い入れは相当なものであったと感じました。
 そして一番嬉しくさせたのは「寛文七年四月廿日 津田重次郎(永忠)朝五つに出船犬嶋江渡海黒田甚七召連候御船右同断」とあります。想像はしておりましたが、やはり津田永忠は犬島の地にあがったのです。屋敷で指図したのではなく、きっと石の吟味等細かく気を配ったことでしょう。

和意谷の墓所

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