土木巧者津田永忠と犬島
津田永忠の和意谷墓地築造と犬島   墓所写真
     封建時代は道徳として忠誠と孝行が最も重んぜられました。忠孝は儒教の中心的訓え「修身斉家治国平天下」の基礎をなす徳目とされていたからです。
 光政は、京都妙心寺護国院にあった先祖の墓を和意谷敦土山(あずちやま)に移転改葬したのですが、このとき仏式を儒式に変えました。寛文5年(1665)、 永忠26歳のときのことです(正式築造命令は2年後)。
 このとき移転された墓は京都から祖父輝政と父利隆、岡山少林寺から叔父輝興の3基でした。和意谷への改葬は寛文7年に行われ、墓地周囲の石垣・玉垣・石門・参道などが出来上がったのは寛文10年です。3基のうち輝政の墓は一のお山、利隆のは二のお山、輝興のは六のお山です(ただし六のお山は、のち6基の集団墓地)。
 ところで、この3基の墓石はむろん、付属施設にも犬島(岡山市)の石が使われました。犬島は良質の花崗岩を産する島として有名で、この石は大坂城築城などにも使われています。このたびの築造に際しての石の切り出し、その量、運送などについて、「和意谷御墓出来記」により、その概要を次に紹介します。
 寛文7年1月17日から4月19日まで、犬島で石の荒切り作業が行われました。中村太郎右衛門、新谷孫七が奉行として犬島へ渡り監督しました。手代としては吉右衛門、仁左衛門の名が見え、石切り棟梁は仁左エ門、七兵衛となっています。4月19日晩までには、荒切りの石全部船着場に並べられました。
 これらと並行して、和気郡の片上港から和意谷までの道普請、敦土山の墓地造成が行われました。総奉行津田永忠は現地の仮宿で寝起きし、毎日指揮督励をつづけたと言われます。
 いよいよ石の積み出しの日がやって参りました。同年4月20日です。前日、輸送奉行中村久兵衛、小林孫七が、岡山から徴用人夫200人をつれて到着しました。石の積み込みは20日の朝六ツの下刻(午前7時20分)から始まり、四ツの下刻(午前11時20分)に終了しましたが、積み込んだ石は莫大で、その種類・容積等は「犬島での切り立て、荒取り御石」の表にあるとおりです。当時は、動力は人の力だけでしたので、わずか4時間で積み終えている点は驚きです。
 石の積載船は「太口平太」といわれる大船三艘ですが、そのどれにも小船三艘が補助舟として付けられました。
 和意谷墓地築造総奉行津田永忠は、積み出し日の20日の朝五ツ(午前8時)に、黒田甚七をつれて船にのり、犬島に直航しました。彼にとっては、最高の名誉の日であり、また責任の重い日でした。
 積載船の出港は同日九ツ(正午)と決まりました。
犬島を出た船は、その日の夜なか邑久郡虫明村の瀬戸まで行って潮待ちをし、翌21日六ツの上刻(午前6時)に片上港に無事着岸しました。
 荷上げは同日夜五ツの上刻(午後8時)に終わり、22日から輝政の棹(さお)石、同じく亀石、利隆の碑石を修羅(しゅら)三つにのせ、それを一つなぎにして6筋の縄をかけ、送り引きされたのです。このため岡山からの徴用人夫は400人にも上りました。
 5月3日に和気郡大中山村(現和気町)につき、ここで2度目の荒切りが加えられ、6月8日和意谷の敦土山にめでたく収まりました。
 犬島の港を出たときの光景、および永忠の指揮については、現在何も伝わっていませんが、28歳の彼にとっては「土木巧者誕生の日」ではなかったでしょうか。

前へ前へ表紙へ    前へ前へ  次へ次へ