土木巧者津田永忠と犬島
津田永忠の出自・生い立ち・仕官
     津田永忠は寛永17年(1640)、岡山弓之町の武家屋敷に生まれました。父は600石取りの武士で、津田左源太貞永といいました。彼はその三男です。
 津田家は尾張国(愛知県)の出身で、織田信長に仕えたあと池田信輝→同輝政→同光政に仕えました。永忠が生まれたとき、父貞永は光政に仕えていました。
 津田永忠は14歳で光政に謁見して、給米30俵・4人扶持(ぶち)をもらい、児小性(こごしょう)に取り立てられました。抜群の才能・器量を認められて、すぐ側(そば)児小性、ついで御側(おそば)不寝番、御櫛上(おくしあげ)役、日時計役に重任され、20歳のとき児小性仲間横目役にあげられました。この役は、現代式にいえば、青年侍従係長といったところです。
 このあと、150石の知行(ちぎょう)もち(給地を賜わる武士)となり、徒士(かち)頭、大横目(侍従長)、評定(ひょうじょう)所列座と、とんとん拍子で昇進しました。25歳のときには、300石取りとなり、徒(かち)横目3人、徒士20人を預かるれっきとした武士に成長していました。
 最初の児小性としての仕官から約10年、これまでに彼は藩主光政の参勤交代にお供して、江戸・岡山間を6回往復しています。永忠は少・青年期を絶えず光政につき従い、寝食を共にして、光政の薫陶をうけたわけです。永忠の姿・行動には主君光政のそれを透かして見ることができるくらいです。
 徒横目3人、徒士20人を率いるに至った永忠が、最初にやった仕事が、実は和意谷墓地の築造でした。これが、私たちのふるさと犬島が永忠と出会った始めです。
 この出会いの年(寛文7年)、彼は28歳、役は大横目です。徒横目・徒士合計23人を率いていますが、なぜ28歳のこの年に、彼は犬島へ乗り込んでくることになったのでしょうか。その理由をまず明らかにし、そのあと彼の犬島お目見えの紹介に進むことにします。

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