土木巧者津田永忠と犬島
藩主中心の近世領国制の登場
     話が少し後もどりしますが、永忠が14歳で仕官した翌年、すなわち承応3年(1654)に備前国は大暴風雨、大洪水に見舞われました。藩も百姓も二度と立ち上がれないほどの被害をこうむったのです。このとき「危機こそチャンス!」と光政は藩政のしくみの大改革を断行します。
 彼は子飼いの能吏を領内各郡に代官として派遣して、藩内すべてを一律に支配、統制する強固なしくみをつくりました。これにより、藩主光政の意図が藩全体に貫徹していくことになります。
 中世の封建制度の場合では、大名は自領を割(さ)いて家来に知行地(給地)を与えます。家来はもらった知行地を自分の思いどおりに支配統治することができます。このため、大名領国の内部は給地(封地ともいう)をもらった家来の数だけ、いろいろの政治が行われることになりました。なかには悪いのがいて、人民を苦しめたり、またひそかに謀反をたくらんだりすることさえ起こりました。
 大名にしてみると、このやりかたは非能率ですし、また心配です。光政は大洪水後の復興のときを狙(ねら)って、藩の完全掌握のための改革を断行したわけです。災害復興は早く、しかも領内一律にうまく進みました。
 この改革の後は、仮に藩主から家来が給地をもらっても、それは名目だけのことで、もらった給地を自分で支配統治することはできません。先ほど、永忠が25歳で300石の給地を賜ったことを述べましたが、それは名目だけでして、彼にはその給地を治める権限は、このたびの藩政の改革によって否定されているのです。このことは、同じ封建制度でありながら、中世と近世の大きい違いです。こうして、光政は備前にきて、藩主に権力が集中する近世領国制を打ち立てた人ということになります。
 近世領国制は藩主の権力がきわめて強い政治のしくみに違いありませんが、そのしくみを思想的に支えたのが、すでに述べました儒教思想、儒学です。江戸時代の長期の平和の実現は、幕府の施策のほかに、各藩が多かれ少なかれ、政治と思想の2領域にわたって領国制をつくり上げたことが原因になっていると思います。この点でも、岡山藩は全国のトップを切っています。
 津田永忠は光政の儒教普及政策に挺身する形で、和意谷墓地の築造に従事したのです。若冠26歳から仕事が始まりました。

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