良宵之図 りょうしょうのず

上村松園(しょうえん)
大正15年(1926年) 縦128.8cm 横42.4cm

 日が暮れて間もない頃、良宵、すなわち晴れて心地よい宵に淡い月が浮かんでいる。柱にわずかに手をそえて凭れ(もたれ)かかっているかに見える女性は、月を見るでもなく美しい横顔で流れるような着物の曲線をみせて佇んでいる。その袖口からわずかに覗く下着の赤がアクセントとなり、画面の上下を貫く柱の直線が、薄物をまとい佇立(ちょりつ)する女性の美しさをきわ立たせている。画面からは、楚々としてひかえめな風情、ひめやかな艶麗さが醸し(かもし)出されているといえよう。
 「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする精神の香の高い、珠玉のような作品を描きたい」と松園自身が述べているが、「良宵之図」も、理想の女性を求めてやまなかった松園のこころざしが、色彩の品位と描線の美しさとして端的に表出されていると言えるのではなかろうか。
 本館所蔵のこの「良宵之図」と殆ど同じ構図で描かれたものに、大正15年第7回帝展に出品された「待月」がある。そこでは月の出を待つ女性の後姿が、描かれているが、画面では柱が女性の中心を分断しており、その点が当時識者に批判されたという。しかし「良宵之図」では柱が左側に寄せられており、この点本館の作品は「待月」と前後して描かれたものであるかもしれない。
 近代日本画の歴史の中で、上村松園が随一の美人画家であることは論をまたないが、美人画の系譜においてはいくつかの流れが見られる。
 一つは、やはり明治に始まる東京画壇の鏑木清方(かぶらぎきよかた)、池田輝方、池田焦園(しょうえん)など、浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっている。
 いま一つは京都画壇の円山四条派に流れに連なるもので、鈴木松年(しょうねん)、幸野楳嶺(こうのばいれい)、竹内栖鳳の画風から、清麗な上村松園というわが国を代表する美人画家が誕生することとなった。
 さらに、大和絵や狩野派との関係では、渡辺省亭、梶田半古、寺崎広業などの画人もいた。
 松園は明治8年京都に生れ、小学校卒業後京都府画学校に入り、さきにふれた鈴木松年の門に入る。明治23年、東京にて開催された第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人画」が一等褒状となり、来日中の英国コンノート殿下に買い上げられて、16歳の松園の名が世に認められることとなった。
 明治26年、松園は師松年の許しを得て同じく円山四条派の幸野楳嶺塾に移るが、楳嶺の死後その高弟であった竹内栖鳳に師事することになる。栖鳳からは常に写生をやれと指導を受けたという。
 その後明治33年、前期日本美術展で「花ざかり」が大観、春草とともに銀杯三席の賞を得て、松園は画家としての地位を確立することとなった。
 明治40年に始まる文展、そして帝展、新文展という明治から大正、昭和にかけての官展の時代において、松園は数々の名品を出品し押しも押されもせぬ美人画家となっていく。
 その間松園が描いたのは、主として古風な京風俗の名残をとどめる女性であり、歴史や謡曲に取材したものもあった。この点、失われゆく京の女性の美しさへの憧憬ともいえるものが多くの作品で示されており、本館の「良宵之図」もそのカテゴリーに入るものといえよう。
 松園の代表作としては、大正7年の「焔」(ほむら)、昭和9年の「母子」、同11年の「序の舞」、同16年の「夕暮」などが挙げられるが、佳品とされる大正15年の「待月」と同じ頃に描かれた本館の「良宵之図」も、清澄な気品と美しい色調を備えた松園絵画の特徴を端的に示すものと考えられる。
 松園の絵について河北倫明氏は、「日本の精神と美感覚の深みにつながり、高く古い文明を背景とし、すでにして久しい歴史の抵抗をくぐり抜けた柔軟強靱なふくよかさを秘めている」と述べておられる。「良宵之図」にも美感覚の深みとほのぼのとしたふくよかさが読みとれるのではなかろうか。
 松園は「私の美人画は、単にきれいな女の人写実的に描くのではなく、写実ということは充分に重んじますけれども、女性の美に対する理想やあこがれに導かれて絵筆を動かしてきた」と述べているが、松園絵画の理想の一端がこの絵に表れているといえよう。
 松園は、昭和23年女性として初めての文化勲章を受章し、翌24年8月に没、享年74歳であった。


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