能装束

薔薇と枝垂桜の熨斗と流水に散桜文長絹
江戸時代 裄107.2cm 丈106.0cm

 ある日、突然、真っ白な檀紙に包まれ、水引きで飾られた、枝垂桜と薔薇の花束が、届けられたら・・・。
 仲たがいしている関係なら仲直りしてもいい、嫌いな相手なら一遍に好きになってしまうかもしれない、と思わせるほど、魅力にあふれた花束ではないでしょうか。
 昨今、花を贈ったり贈られたりすることが珍しくなくなり、花の取り合わせや包装にもあらゆる工夫が凝らされるようになって、少々のことでは感激しなくなっています。現在でも進物に熨斗や水引きは添えますが、このように美しい花を檀紙で包み、水引きをかけた「花熨斗」(はなのし)と呼ばれる典雅な姿の贈物に遭遇することはありません。
 藤花や柳など垂下する植物の風情には捨て難いものがありますが、花束にするには扱いにくいものです。それを敢えて実行し、成功したところに前述の感動や喜びがあるわけです。
 どんなにそっと抱えていても、また微かな風にも、しなやかな枝は揺れることでしょうし、その姿はこのうえもなく、美しいものではないでしょうか。そういう情趣をそっくり取り込んだのがこの装束といえるでしょう。
 能装束の長絹(ちょうけん)とは、優雅な男役の上着にも、また女役の舞い装束にも用いられるものをさします。舞の美しさを際立たせるために透ける素材を使い、さらに揺れるさまが美しいものとして、枝垂桜・藤・柳・萩・薄などが意匠に多く選ばれます。この装束は、紫地に文様は金一色という最も高雅な趣を示す配色で、古くから日本人が愛してやまない桜を表現しています。
 長絹の文様は、大きな紋を背面に3つ、前面に2つ配した紋文様と 総文様のものがあります。紋文様では、この花熨斗と流水のように主従の文様がおかれる場合が多いようです。しかし、主文様の枝垂桜がハラハラと水の流れに舞い落ちているような、連続的な繋がりを持つ図柄は珍しいものです。
 毎年、3月ともなると私達の体の奥底で何かが騒ぎ始めます。桜のことが気掛かりで、老いも若きも桜前線の動静を窺うようになります。農耕民族だったからなのか、中国渡来の梅より嗜好に合ったからなのか、よくは解りませんが、蕾から散りゆく一片の花びらにいたるまで、これほど日本人がいとおしむ花を他に知りません。
 「長春」の意を込めた薔薇を添え、金箔糸で華やかに織りだされた花熨斗文は吉祥文様と呼ぶに相応しいものです。しかし、水に浮かぶ花びらのひとつひとつに目を向ければ、平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」が脳裏をよぎり、「盛者必衰の理(ことわり)」を思い知らされる一領(いちりょう)でもあります。


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