【花房志摩守正成の家譜について】
花房家は足利氏から分かれた家系で、清和源氏の姓系に繋がり、始祖の職通が常陸国の花房郷(現・茨城県久慈郡金砂郷村大字花房)に居住したことから地名を姓とした。
 
職通の11世の孫にあたる花房正幸は、天文年間(1532〜54)に播磨国から備前国へ移って宇喜多直家に仕え、直家の備前国制覇に伴って1万8千石を領して虫明城主となった。正幸の子の正成は、父と共に直家に仕えていたが、やがて家督を継ぎ、羽柴(後に豊臣)秀吉の中国の役(所謂備中高松城水攻め)では宇喜多家の有力武将として活躍し、大大名に成長した宇喜多秀家(豊臣家五大老の一人)の家老職を勤め、3万1千石を領有して備中高松城主となった。天正16年(1588)に従五位下志摩守に叙任している。

その後、正成は家中騒動に連座して宇喜多家を去り、関ヶ原の合戦の後に徳川家康に仕えて旗本となり、慶長9年(1604)に備中国の小田郡と後月郡の内で5千石を知行し、猿掛の地に知行所を設けた。正成から4代目の正矩の代の元禄10年(1697)に、同じ石高で近江国に知行替えとなり、豊田郡の小山村(現・静岡県袋井市小山)に知行所(陣屋)を設けている。以後、正成の直系の花房家はこの地を知行する旗本として、定火消・百人組頭・江戸城西丸書院番頭等々の幕府の役職を勤めながら、明治維新に至っている。   写真 備中高松城跡を俯瞰
備中高松城跡俯瞰(北から:周辺の公園造成前)

此度、所蔵されていた歴史資料を一括して岡山市教育委員会に御寄付下さった花房正幸氏は、正成を家祖とする旗本花房家の直系13代目に当たられる。

なお、正成は江戸の池上本門寺に葬られていたが、正成が知行所に建立した菩提寺の妙泉寺(小田郡矢掛町横谷)に、昭和45年に改葬された。
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花房家歴史資料