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(8月~10月)「明治150年 明治天皇の岡山行幸」

会期 平成30年8月24日(金)~10月14日(日)
会場 当館2階 視聴覚ホール前 展示コーナー

 明治150年を記念して、岡山の人々に明治という新しい時代の到来を印象づけた、明治18年(1885年)8月5日~7日の明治天皇の岡山行幸に関連する当館所蔵資料を展示しています。

新時代を印象づけた明治18年の行幸

 明治維新を迎えて国民に新しい施政を印象づけるため、明治5年から全国へ明治天皇の地方行幸が精力的に行われ、明治18年には山口・広島・岡山各県への行幸が実施されました。
 このとき北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王ら130名の随員を伴った一行は、明治18年7月26日に宮城を出発し、横浜港から乗船。山口県と広島県の日程を終えて8月4日に広島の宇品を出港し、倉橋島沖に停泊。8月5日夕刻に犬島の沖合で大型船から小型船に乗り換え、さらに飽浦(あくら)沖で岡山県が新調した蒸気船へ移り、旭川の河口の三蟠(さんばん)港へ上陸しました。ここで千阪高雅(ちさかたかまさ)県令と旧藩主の池田章政侯爵が出迎えて午後4時30分から小林嘉四郎邸で小休止ののち、煙火(はなび)があがって岡山紡績所の汽笛が鳴らされる中を、学校児童、役場職員、一般奉拝者らが立ち並んで国旗を振る旭川の堤上を馬車で進み、小橋町から橋を渡って西大寺町へ入り、市内目抜き通りの表三ヶ町(下之町、中之町、上之町)を北へ通過し、弓之町から石関町の仮橋を渡って午後5時20分に後楽園の行在所(あんざいしょ)へ到着しました。
 翌朝は午前7時47分から現在の天神町にあった県庁を訪れて千阪県令から県治の概要の説明を受け、午前8時19分に岡山始審裁判所(現在の岡山地方裁判所)を、午前8時35分には岡山学校(岡山師範学校と岡山中学が一時統合されていた学校で、現在の蕃山町にあった藩校の建物を使っていた)を、そして午前8時56分には岡山県医学校(当時は岡山城西の丸に所在していた。岡山県医学専門学校等を経て現在の岡山大学医学部となる)を訪問し、午前9時19分に後楽園の行在所へ戻りました。そしてここで県民による古器物の展示や剣道・馬術の試合を観覧し、維新の戦役における県内の戦没者を追悼し、長寿者を祝い、行幸の実施にあたってさまざまな業務に携わった人々の労をねぎらいました。
 そして8月7日午前6時43分に、一行は後楽園を出発して弓之町から表三ヶ町を南進し、西大寺町から京橋を渡り、小橋町から古京町、森下町へ進んで、藤井村、一日市(ひといち)村(この後に行幸を記念して御休(みやす)村と改称される)で小休止し、西片上警察分署で午餐をとるなどして、その日は三石(みついし)村の光明寺宝珠院に宿泊。翌朝、県令らが拝謁したのち、ここを発って船坂峠を越え、神戸港から乗船して横浜港へ向かい、宮城へ帰還ました。
 近世には、天皇は京都の御所にあってほとんど人目に触れることのない存在でしたが、明治維新を迎えてからは断髪して洋装の軍服姿で全国各地を訪問するようになり、国民は天皇の親政による新しい施政の到来を近代化と重ね合わせて実感するとともに、国民の前で国家の支柱としての天皇の聖化も進められていきました。

(1)行幸の舞台裏

 江戸時代に岡山城下町の民政や財政を取り仕切った惣年寄(そうどしより)役を勤め、維新後も市政の有力者であった国富家の文書(約700点、当館蔵)の中に、明治18年の行幸に関係する資料が含まれていました。
 行幸の頃の当主は国富大三郎で、叔父の庄太郎が補佐していましたが、紙屋町(現在の岡山市北区表町三丁目)にあった国富家の屋敷は、筆頭随行者の北白川宮能久親王(東京鎮台司令長官、陸軍少将)と、副官の鷹司道煕(たかつかさみちひろ)東京鎮台歩兵中尉(公爵)らの宿泊先になりました。このほか、参議で宮内卿の伊藤博文らは野田屋町の池田政和(いけだまさやす 近世には岡山藩の家老職も務めた天城池田家の当時の当主で、金川中学を設立して多数の有能な教師を集めた日置健太郎はその実弟)の屋敷に泊まり、内務大輔(たいふ)の芳川顕正(よしかわあきまさ 後に東京府知事や文部、司法、内務、逓信の各大臣職を歴任するが、東京府知事時代には市街地改良事業に取り組んだことで知られる)らは西中山下(にしなかさんげ)の武田庄次郎の屋敷に、侍従長の徳大寺実則らは山崎町の佐々木善三郎の屋敷にというように、市内の有力者の邸宅が130名に及んだ随員の宿所にあてられました。


展示品

「来る4月 福岡県下へ行幸遊ばされ対抗運動ご覧済み御帰途本県へ御立寄の節、御宿割そのほか奉る 御迎え諸般布達並びに聞見別記」(国富文庫092/83)
 岡山行幸に先立つ明治18年の4月に、福岡県で軍の演習があった帰途、天皇の名代で派遣されていた小松宮の随員の中から、宮内省の高官の杉孫七郎(皇太后宮大夫)ら5名が8月の行幸の打合わせのために来県しており、県庁からの指示で国富家が彼らのために邸宅を宿所として提供したときの記録です。区役所や戸長役場との連絡の文面や、宿所の部屋の間取りと調度品、料理の献立、交わされた詩文とみられるもの、入費などが詳しく記載されています。なお、当時は明治22年に市町村制が施行される前でしたから、行政単位としては岡山区(当時の区長は、手代木勝任 てしろぎかつとう)があり、その下に戸長役場が設けられていました。

表紙の画像
表紙

夜具や調度の一覧(菓子には国富家の近隣にあった金華堂の銘菓、調布が出されています。翁軒に引き継がれた後も、調布は国富家によって、ひいきにされてきました)の画像
夜具や調度の一覧(菓子には国富家の近隣にあった金華堂の銘菓、調布が出されています。翁軒に引き継がれた後も、調布は国富家によって、ひいきにされてきました)

食事の献立の冒頭部分の画像
食事の献立の冒頭部分

「明治18年7月 御巡幸供奉 北白川御宮御旅館仰せ付けられ候節、調度諸般控」(国富文庫092/85)
 こちらは、いよいよ8月の行幸で、国富家が筆頭随員の北白川宮とその部下の鷹司中尉に邸宅を宿所として提供したときの記録です。北白川宮は8月6日に一行から分かれて、明治天皇が訪問できなかった内山下(うちさんげ)の岡山県病院を名代として訪れたのち、三蟠港へ戻ってそのまま乗船しました。
 4月の宮内省の高官に続き、行幸の当日は皇族の白川宮らに宿所を提供した国富家は、幕末から岡山城下で随一の富豪として栄え、安政年間から城下の町人の代表として市政を取り仕切る惣年寄役を務めて明治維新を迎えた、市内きっての名望家でした。代々の当主は茶道や和歌などに深い造詣を有しており、このたびの行幸でも賓客をもてなす大切な役目を無事につとめ上げました。
 なお、北白川宮能久親王(弘化4(1847)年~明治28(1895)年)は、維新の前は江戸の輪王寺の門主を務めていたことから、戊辰戦争に際しては奥羽列藩同盟と行動を共にしており、維新後には赦されてプロシアに留学し軍事を学んできたという経歴の持ち主です。国富家の人々とどのような会話があったか興味がもたれますが、ここに展示した控え帳からは諸準備での奔走の様子がうかがえます。

表紙の画像
表紙

宿所の提供を県令へ約束した請書の文面の控えの画像
宿所の提供を県令へ約束した請書の文面の控え

北白川宮の宿所の間取り(前の文書の日付から、報告の控えかも知れません)の画像
北白川宮の宿所の間取り(前の文書の日付から、報告の控えかも知れません))

用意した夜具や調度品に関する記載の画像
用意した夜具や調度品に関する記載

鷹司中尉の宿所の間取りなどの画像
鷹司中尉の宿所の間取りなど

諸入費の一覧の末尾の画像
諸入費の一覧の末尾

 ところで、この行幸にかかわる膨大な費用は誰が負担したのでしょうか。それを知るための手がかりが、国富家の文書に残っていました。
 前掲の画像は、文書「明治18年7月 御巡幸供奉北白川宮御旅館仰せ付けられ候節・・・」の、諸々の入費をまとめた末尾のページで、北白川宮と鷹司公爵と随員2名の宿泊等にかかった経費の合計額が示されている箇所です。これをみると、前の数ページから続く経費明細を受けて、右端から2行目に合計額112円19銭が示されており、ここから県庁からの下賜金や警部からの茶料など12円19銭を差し引いた残額が、左端の行で100円と示されています。ほかに注記もないことから、この金額を国富家が負担したものと思われます。
 さらに、次に掲出した画像は、さきに紹介した、4月に宮内省の杉孫七郎らを迎えたときのことをまとめた文書「来る4月、福岡県下へ行幸遊ばされ、対抗運動ご覧済み、御帰途本県へ御立寄の節・・・」の末尾のページですが、ここにあげられている経費の総額は、行幸の当日よりさらに多い207円でした。その中で、高官たちの宿泊に直接関わる経費7円が県庁からの下賜金で賄われましたが、残る200円は行幸の当日の場合と同様に国富家が負担したものとみられます。
 ここには掲出していませんが、画像で示したページの前に数ページにわたって記されている入費の明細をみると、200円もの経費のほとんどが邸宅の改築や調度品の買い入れにあてられていたことがわかります。すなわち、行幸の随員を迎えるための邸宅の改造は、すでに4月の段階で終えており、このときに杉孫七郎らを泊めることで、事前の確認をしてもらっていたのかも知れません。

「来る四月 福岡県下へ行幸遊ばされ対抗運動ご覧済み御帰途本県へ御立寄の節、御宿割そのほか奉る 御迎え諸般布達並びに聞見別記」(国富文庫092/83) 入費の末尾の部分の画像
「来る四月 福岡県下へ行幸遊ばされ対抗運動ご覧済み御帰途本県へ御立寄の節、御宿割そのほか奉る 御迎え諸般布達並びに聞見別記」(国富文庫092/83) 入費の末尾の部分

「御巡幸之節 諸事控え」(国富文庫092/82)
 明治18年の行幸に関する以下のさまざまな記録が丁寧な楷書で書写され、まとめられた控え帳です。おもな内容は下記のとおりです。
(1)明治18年の山陽道行幸が公表された明治18年7月15日付け太政官告示などの、各種の公文の写し
(2)多数の随行者の名簿と、その宿割り
(3)行幸の出発から帰還までの全行程
(4)一般市民へ申付けられた奉迎の心得
(5)岡山の国富村(現在の中区国富)で打ち上げられた煙火(はなび)の一覧と、制作した職人の名前

「御巡幸之節諸事控」の表紙の画像
「御巡幸之節諸事控」の表紙

「御巡幸之節諸事控」から、太政官告示の写しの画像
「御巡幸之節諸事控」から、太政官告示の写し

「御巡幸之節諸事控」から、宿割りの冒頭の画像
「御巡幸之節諸事控」から、宿割りの冒頭

「御巡幸之節諸事控」から、宿割りの続きの部分の画像
「御巡幸之節諸事控」から、宿割りの続きの部分

「御巡幸之節諸事控」から、一般奉迎者の心得が記された部分の画像
「御巡幸之節諸事控」から、一般奉迎者の心得が記された部分

「御巡幸之節諸事控」から、煙火(はなび)について記した部分の後半の画像
「御巡幸之節諸事控」から、煙火(はなび)について記した部分の後半

「御巡幸の節、県令より国富氏への感謝状」(国富文庫092/84)
 後日、千阪県令の名前で国富大三郎と庄太郎あてに届けられた礼状が、封筒とともに保存されています。
(読み下し)「本年8月 御巡幸供奉員宿泊の節 準備接待向き行届き候段 満足致し候なり 明治18年11月3日 岡山県令千阪高雅 国富大三郎殿」

 なお、当時の岡山県令、千阪高雅(天保12年(1841年)~大正元年(1912年))は、米沢藩の家老の家に生まれ、イギリス留学の経験があり、内務省に入って明治12年から石川県令、そして明治17年から明治27年まで岡山県令および県知事を務め、その後に貴族院議員に勅任されました。前任の高崎五六県令が地租改正と秩禄奉還を強力に推し進め、民権派と対立しながらも殖産興業と近代化に努力した後を受けて、県政の課題に取り組みました。

県令から国富大三郎へ宛てて出された礼状の画像
県令から国富大三郎へ宛てて出された礼状

(2)行幸を記録し、記念した資料

 このときの行幸は岡山の人々にとって大きな出来事で、多数の記録文書や絵画、詩文によって記念され、そのイメージが広く伝えられていきました。

展示品

二代目長谷川貞信筆「御巡幸御行粧(ごこうしょう)之図」
 4枚続きの錦絵で、馬車に乗った明治天皇が多数の随員とともに市内を進んで行く様子が理想化を加えて描かれています。列の後尾はまだ京橋を渡っているところですが、これは列の長さを強調するための描画の手法とみるべきでしょう。
 画面の左端の奥には翌日の訪問先の県庁の正面や、行在所となった後楽園の木立ちと仮橋が、そしてその右には岡山のまちのシンボルである岡山城が描かれています。多数の市民が国旗を振って出迎えている様子が、雲の表現に隠されながら暗示的に描かれています。赤色が基調の色彩豊かできらびやかな洋装の一行が、市民の目を驚かせたことがうかがえます。
 なお、一行が市街を北へ進んで行在所へ向かったのは5日の夕刻でしたが、画面では操山(みさおやま)の峰から旭日が差し昇っているところが表されているし、行列の先頭が後楽園への仮橋を渡っている場面も小さく描きこまれています。つまり、画面には異なる時間にわたる複数の情景が盛り込まれているのであり、この錦絵は行幸の全体のできごとを総合して、ひとつの画面にまとめあげる構想で作成されています。それに実際の時間とは異なっていても、岡山の市街を照らそうと旭日が射し初めている情景は、新時代の幕開けを示すのにふさわしい印象を与えます。
 画面の右上の枠囲み中に書かれている識語は、下記のとおりです。(括弧内の片仮名は原文にあるルビで、平仮名は補註です)
「今ヤ王政覆古トナリ至尊(テンシ)ノ龍体(ヲスカタ)ヲ拝スルコト実ニ難有(アリカタヤ)コトナラズヤ 然(しか)ルニ其(ソノ)人民トシテ徒(イタツラ)ニ黙居(モクキヨ)スルトキニアラズヤ 勤テ皇恩ノ深キヲ貫徹セズンハ(ば)アルベカラズ 依(ヨツ)テ爰(ココ)ニ御巡行ノ大概(アラマシ)ヲ著(あらわ)シテ 山間僻地(イナカ)マデ聊(いささか)是ヲ知ラシメントノ微意己而(ノミ) 編者謹白」
 描いた画家は、大阪の浮世絵界で第一人者として活躍していた二代目長谷川貞信です。そのためか、描かれている建物は実際のものと少し形が異なっており、岡山城の天守閣の姿や、後楽園の周囲を巡る頑丈そうな石垣や、ここに架けられている仮橋とはいえない木橋などは実情と異なるし、県庁の右下に描かれている平屋根の洋館にいたっては同定が困難です(岡山県病院?)。しかし、そういう個々の細部があまり気にならないほど、全体は緊張感にあふれ、緊密に構成されています。京橋かいわいの様子は、克明な描写で市街の賑わいを活写しています。
 発行(発兌)者には岡山区内の人の名前(中之町の渡辺祐吉と西大寺町の阿部勝志)があげられています。

二代目長谷川貞信筆「御巡幸御行粧之図」の画像
二代目長谷川貞信筆「御巡幸御行粧之図」

野村熊三郎(編)『観風余芳』(明治19年7月、岡山区下出石町の緑錦堂(=野村熊三郎)蔵版、岡山区東中山下の弘文北舎と同浜田町の武内彌三郎から発刊)
 巡幸に際して詠まれた漢詩と和歌を収録し、翌年に刊行された書物です。
 高さ18.9センチメートル、序文5丁・本文23丁の和綴じの小冊子で、表紙の題箋には「上」とありますが、内容は1冊で完結しています。
 冒頭の4ページにわたって千阪高雅県令の「観風余芳」の書が掲げられ、これに閑谷黌教授、西毅一(号、薇山)の撰文による序が続いています。そして本文ページは編者の野村熊三郎(号、熊山)の序文に始まり、木畑道夫(池田家の史料編纂にあたった歴史家。号、担斎)や野村熊三郎など20名の漢詩文と、手代木勝任(行幸のときの岡山区長)や岡直廬(おかなおり 酒折宮の宮司で歌人として知られ、国富大三郎と国富友次郎もその門人だった)など46名の和歌からなっています(一人で2首収録されている人もあります)。
 なお、岡山県内の巡幸の第3日にあたる8月7日に、侍従長の徳大寺実則が一行から分かれて、天皇の名代として閑谷黌を訪問しています。これを西毅一が迎えて、学校の沿革などを説明しました。
 彼の漢詩文からなる序は、「鳳駕は西に巡り、我が岡山県に臨む。農はみな野に耕し、商賈はみな市に衒う。行旅は路に在り、漁父は歌って樵夫は和す。庶人百工おのおの其の業を安んじ・・・」と、県治の順境ぶりを高らかに謳い上げて、この書物の題の意味(風俗を観察する)を示しています。
 西毅一(天保14年(1843年)~明治37年(1904年)は、岡山藩家老の長男として生まれ、西後村の養嗣子となり、幕末維新の岡山藩政で活躍し、明治8年から岡山県参事として地租改正や小田県との合併にあたりました。その後は東京上等裁判所判事となり、明治2年に続く2度目の渡清を行い、明治12年からは郷里の岡山で国会開設運動に没頭します。また、同年に閑谷黌黌長に就任し、以後は旧岡山藩士の中心的な存在として士族授産を進めるとともに、閑谷黌の復興に尽力して岡山県内の教育界に大きな影響を与えました。明治23年から明治26年までは衆議院議員を務めました。

『観風余芳』の表紙の画像
『観風余芳』の表紙

『観風余芳』冒頭の、千阪県令の書の画像
『観風余芳』冒頭の、千阪県令の書

『観風余芳』 千阪県令の書が終わり、西毅一の序が始まったところの画像
『観風余芳』 千阪県令の書が終わり、西毅一の序が始まったところ

『明治大帝岡山県御巡幸史』(『備作教育』第334号、昭和9年6月30日、岡山県教育会発行)
 明治18年の巡幸から50周年にあたる昭和9年に、岡山県教育会の機関誌『備作教育』の1冊すべてをあてて巡幸史が特集されました。
 執筆者は、戦前の『岡山市史』や『改訂版邑久郡史』などにも携わった郷土史家の小林久磨雄です。太政官布告等の公文や、内閣大書記官として行幸に随行した金井之恭の『西巡日乗』(明治18年12月、内閣から刊行)を中心に多くの記録を参照し、さらに行幸の訪問先での聞き取りをあわせて、まとめあげた労作です。
 展示品は、国富家に保管されてきた1冊です(国富文庫092/81)。国富大三郎の養嗣子の国富友次郎(明治3年(1870年)~昭和28年(1953年)は、実科女学校(現在の就実学園)の創設に尽すなど学校教育や幼児教育の分野で活躍した人で、第二次大戦中には岡山市長を務めています。大正4年から2度目の岡山県教育会副会長に就任しており、この『明治大帝岡山県御巡幸史』の発行後、間もない頃の昭和9年10月には会長に推されています。小林久磨雄ほか多数の郷土史家とも交流がありましたので、この本自体には何も記されていませんが、そのような状況から、教育会の機関誌を利用して明治天皇の巡幸史をまとめておこうとした有力な発案者であった可能性が考えられてきます。

『明治大帝岡山県御巡幸史』の表紙の画像
『明治大帝岡山県御巡幸史』の表紙

(3)三蟠港上陸後の休憩所の資料

 8月5日の夕刻、明治天皇の一行が蒸気船で児島湾口を渡り、旭川の河口の三蟠港に上陸したとき、千阪県令と旧藩主の池田侯爵が出迎え小休止をした場所が、江並で山長旅館を経営していた小林嘉四郎の邸でした(その場所は実際は旅館の客室だったかも知れませんが、国富家の文書「御巡幸之節諸事控」や『明治大帝岡山県巡幸史』には「小林嘉四郎邸」とだけあり、詳細は判断を留保しておきます)。
 当館にはこのとき使用された提灯や、山陽鉄道の開通後は岡山駅前へ移転して市内有数の宿泊施設として繁盛した山長旅館の関係資料が所蔵されています。

展示品

江並の小休止所の提灯
 一行が江並の小林嘉四郎邸で小休止したときに用いられた提灯がひとつと、それを収納していた木箱と風呂敷が残されています。木箱の蓋の裏に墨書で「明治18年8月5日 御巡幸御用人臣(?)集所請負者 小林嘉四郎」と記されていることが、そのことを裏書きしています。提灯にも「御用人臣(?)集所」とあります。
 木箱を包んでいた浅緑色の風呂敷には、波と「丸に三つ柏」の紋が染め抜かれています。

江並の小休止所の提灯の画像
江並の小休止所の提灯

提灯を収納していた木箱とその蓋裏の文字の画像
提灯を収納していた木箱とその蓋裏の文字

山長旅館の商標が記された収納器
 このほか、墨書などの手がかりがないので行幸当時のものかどうか不明ですが、山長旅館の商標(「山」の下に「長」の文字)と「丸に三つ柏」の紋を朱色で記した収納器が残っています。
 編まれた材質で作られ、蓋と本体が入れ子状になので行李(こうり)のようでもありますが、木材で補強されているので少し違っています。

山長旅館の行李の画像
山長旅館の行李

『山陽吉備之魁』(川崎源太郎編著、明治16年)
 大阪府堺の川崎源太郎は、さまざまな種類の商店を案内するタウンガイドのような小冊子を、全国の多数の都市について刊行しました。
 魁(さきがけ)シリーズの一つであるこの冊子は、岡山の商店の紹介書で、明治天皇の巡幸の2年前に刊行されていたものですが、その冒頭のページに、商標を染めた旗がひるがえる山長旅館と、三蟠港の様子が描かれています。船でやってきた多くの旅行者がここで上陸し、人力車に乗り換えて旭川の堤上の道を進み、市街地へ向かう様子が描かれています。
 ちなみに、その後の山長旅館についてですが、明治41年版の『岡山商工人名録』(明治42年1月、岡山商業会議所発行)に掲載された岡山市内の46宿泊施設で、明治41年12月1日現在の営業税額の上位は下記のとおりです(所在地は、上石井は岡山駅前、上之町は表町)。
1 三好野花壇(上石井) 170円
2 自由舎(上之町)    160円
3 木甚支店(上石井)  156円
4 山長旅館(上石井)  130円
5 錦園(上石井)       82円50銭
 

『山陽吉備之魁』 三蟠港と山長旅館が描かれた冒頭のページの画像
『山陽吉備之魁』 三蟠港と山長旅館が描かれた冒頭のページ

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