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(6月~8月)「明治150年  徴兵制 ~役場の文書から近代を振り返る~」

日時 平成30年6月19日(火)~8月15日(水)
会場 2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 明治150年を記念し、岡山空襲の日(6月29日)と終戦の日に寄せて、明治の近代化とともに施行された徴兵制と、戦争がもたらした惨禍を、岡山市へ編入合併された周辺町村の役場の公文書(そののちに当館へ収蔵され、保存されてきたもの)によって紹介します。

徴兵制 ~近代の陰で

 徴兵制は、フランス革命に際して国民から召集された軍隊が、職業軍人の精鋭からなる諸外国の軍隊を大兵力で圧倒したことから、フランス、ドイツなど多くの国で採用されましたが、イギリス、アメリカのように志願兵制に基本を置いてきた国もありました。
 日本では明治6年1月の太政官布告で徴兵令が宣せられ、明治8年までに北海道と沖縄を除く全国で徴集が始まりました。以後、徴兵制は幾度か改訂されますが、明治22年の大日本帝国憲法発布に伴う大改訂では、徴兵を合法的に回避できる免役条項が撤廃されて国民皆兵の原則が貫かれ、さらに昭和2年の改訂(兵役法の制定)で国民総動員体制が進められました。徴兵の範囲も国内全域から太平洋戦争末期には植民地の朝鮮・台湾に及び、昭和20年の敗戦で徴兵制が撤廃されるまでに多数の国民が戦地へ送り出されました。
 戦前の市町村の事務では、兵事に関わる業務が大きな位置を占めていました。徴兵のための名簿作成、留守家族への扶助、戦没者の葬儀や慰霊、そして終戦後も復員兵や戦没者遺族への対応など、残された文書からは、地域の身近な役場でも徴兵制に関わるさまざまな業務が行われてきたことがわかります。こうして明治以後の軍隊と徴兵制の歴史を振り返ることは、平和と独立を守るための真の備えとは何かを考えるためにも重要です。
 そこでこのたびは、戦後の岡山市史の編集や、その後の図書館の独自の収集活動によって、当館には昭和30年代前後に岡山市へ編入合併された周辺町村の役場の文書が多数保存されていることから、そうした身近な役場に伝えられてきた歴史的公文書を通じて徴兵制の具体的なあり方をたどって行きます。

 なお、公職にかかわる氏名や、すでに一定範囲にわたり公表されていると考えられる情報を除き、個人にかかわる情報を伏せています。
 資料の閲覧請求の場合も、本資料の性質上、同じ見地から一部に制約を設けることをご了承願います。

(1)徴兵制の始まり

 明治6年の徴兵令によって、17歳から40歳までの男子国民全員が国民軍名簿に登録されるようになり、20歳になると徴兵検査が行われて、その合格者の中から抽籤で3年間の兵役に服する人が選ばれました。
 徴兵制が布かれたばかりの頃は、西日本を中心に各地でこれに反対する一揆が頻発しましたし、地租の確保のためもあって戸主や嗣子は免役とされたので形の上だけの養子縁組を行ったり、当初は徴兵制が未施行だった北海道や沖縄へ本籍を移したりするなど、法に触れない範囲での徴兵忌避も少なくありませんでした。そこで明治22年の改正では免役の諸制度が撤廃され、高学歴者への猶予(1年間の予備役勤務のみでよい)を残し、国民皆兵の原則が貫かれていきました。
 岡山市域に保存されてきた歴史的公文書の中では、津高郡の白石村役場から当館へ移管された文書に、岡山県内で明治7年に始まった徴兵事務の実際をうかがい知ることのできる資料が含まれていました。今保、久米、白石、花尻の4村が明治22年に合併して成立した白石村は、昭和27年に岡山市へ編入されますが、役場にあった書類の中から、非現用で、なおかつ歴史的価値が高いと考えられた文書が選別され図書館へ移されて、こんにちまで伝えられたのでした。

「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)の画像
「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)

<展示品>

「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)
 岡山県内の最初期の徴兵事務の様子がうかがえる文書が当館に伝わっています。作成した今保、久米、白石、花尻の4村は、明治22年に合併して白石村となり、昭和27年に岡山市へ編入されました。表記の見出しの書類の束の中に、国民軍人届綴、国民軍人名簿、応徴者名簿、免役者名簿などに相当する各種の文書が含まれています。

(読み下し)
私長男○○○<長男の名前>義(ぎ) 安政元年甲(きのえ)寅六月十一日生(うまれ)ニ而(にて)明年二月十五日迄ニ(までに)二十歳八ヶ月ニ相成申候(あいなりもうしそうろう)此度(このたび)御届(おんとどけ)申上候(もうしあげそうろう)以上
        津高郡今保村雑業 ○○○○○<氏名>(印)
   明治七年十一月五日
副戸長 深井再可殿
同    財出清四郎殿

 これをみると、国民軍への登録は届出の形をとって行われていますが、たくさん綴られている届出書は文面がどれもほぼ同じで、あらかじめ定まった書式があったと考えられることから、それを示されて捺印が行われたものかとみられます。


「津高郡国民兵人員表」(白石村、明治17年~明治20年代初頭)の画像
「津高郡国民兵人員表」(白石村、明治17年~明治20年代初頭)

「津高郡国民兵人員表」(白石村、明治17年~明治20年代初頭)
 4村が国民兵への登録者数を津高郡へ報告した文書の控えとみられるもので、明治17年からの数年分が綴じられています。左側のページに各年の人数が一覧に書き出されており、続けて次のページに「前書の通り相違これなく候(そうろう)につき この段 お届け候なり」と書かれ、さらに日付、村の戸長の名前(差出人)、津高郡長の名前(宛先)が記されています。したがってここに掲載した画像では、向かって右のページに明治17年の郡長への報告文、左のページに明治18年の人数表が出ています。
 国民軍とは、国民皆兵の考え方にたち、該当年齢の男子を全員登録するもので、実際に軍人(現役、予備役、後備役)になるのは、その中から徴兵検査に合格し、免役の対象から外れ、さらに抽籤で選ばれた人々でした。


「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)から、「徴兵免役之者」の画像
「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)から、「徴兵免役之者」

「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)から、免役者の名簿
 さきに掲載した「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」に含まれる書類から、白石村へ合併した4村の、ある年の免役者名簿を示しています。
 画像は個人の住所と氏名を伏せて掲載していますが、戸主と嗣子が免役の対象になっていることがわかります。
 重要な働き手を失うことは、その家族にとって大きな打撃であり、地租の徴収のために一定の耕作者を残す必要があったことから、徴兵制の初期にはこうした免役条項がありましたが、そのために形式的な養子縁組による徴兵回避がしばしば行われたことから、明治22年の改正で撤廃されました。


「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)から、「応徴之者」の画像
「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)から、「応徴之者」

「国民軍入簿書上及常備軍御届連名簿」(今保村、明治7~明治12年)から、応徴者の名簿
 同じく4村から選ばれた、ある1年の応徴者の名簿です。応徴者は、徴兵検査の合格者の中から免役条項の該当者を除外して、抽籤で選ばれましたが、特に戦争が行われているときでなければ、ただちに戦地へ赴いたということではなく、3年間(明治22年以後は2年間)の兵役を終えると除隊し、以後は在郷軍人として各々数年間の予備役と後備役を勤めることになりました。
 この画像では個人の住所と氏名を伏せていますが、氏名の右肩にあるごく小さな文字で、それぞれの人が次男や三男であったことが示されています。


「予備役演習召集旅費支払表」(白石村、明治23年)の画像
「予備役演習召集旅費支払表」(白石村、明治23年)

「予備役演習召集旅費支払表」(白石村、明治23年)
 演習が行われると、現役を終わって除隊していた予備役兵にも召集がかかることがありました。白石村に伝わったこの文書は、予備役兵が白石村のあった津高郡から姫路の部隊まで出向くために、津高郡長から村役場を通じて支給された旅費に関する記録です。内容は、費用を受け取った兵士から提出された領収書(簿冊の後半に綴じられている)を添えて、請取高を村から郡へ報告した文書で、その控えが村に残されたと考えられるものです。


(2)国民生活への影響

 日本の常備軍は、当初は西南戦争のような地方の反乱に備えるために設けられており、鎮台と呼ばれた組織に編成されて、おもに地域の守備に当たっていましたが、日清戦争、日露戦争と外地への遠征が重ねられるにつれて、機動力があって独立して作戦行動が行える連隊~旅団~師団からなる編成へ組み換えられ、外征軍としての性格を強めて行きました。
 郷里を離れて応召された兵士は、厳しい訓練を受けて軍人として鍛え上げられました。平時には一定の現役期間(当初は3年、明治22年の改正以後は2年)を終えると除隊して家族のもとへ帰還できましたが、以後も長期にわたり予備役や後備役を勤めることになり、ひとたび戦争が勃発すれば直ちに召集がかかりました。
 明治43年には予備役・後備役の元兵士が半官半民の在郷軍人会に組織されて、一般市民への軍事教育や思想統制に役割を果たすようになりました。
 また、戊辰戦争以来の戦没者を慰霊し、戦場での献身を顕彰するため、各地に招魂社が建設されました。
 しかし、家族の中から重要な働き手を兵士に応召されることは、生活苦に直面することもある大きな負担でした。すでに日露戦争のとき、留守家族の援護会を市町村が組織し、地域の住民の相互扶助で留守家族への給付を行うことが行われていますが、この問題は大正デモクラシーと昭和恐慌の時期を経て輿論が大きく取り上げることとなり、留守家族や戦没者遺族に対する扶助や地租軽減措置などが政府の施策としても行われていきました。


<展示品>

「兵事ニ関スル郡達綴」(東興除村、明治35~36年度)
 軍などからの通知を受けて、郡役所(この文書の場合は児島郡役所)が村へ伝達した、各種の通達や指示の綴りです。その年度に徴集する現役兵の予定人数、演習のために臨時招集される予備役兵(在郷軍人)への通知と旅費の支弁、軍人家族援護法の制定に伴う事務の伝達、法律の改廃に伴う事務手続きの変更の通知など、さまざまなことが郡役所から村役場へ指示されています。
 ここに画像として掲載したページには、志願兵の勧説のために児島郡内の各村を廻って行われる説明会の日程と、そのために村役場からも担当の職員が出席することを求めて郡役所から村役場へ宛てて出された通達の文面です(展示には別のページが出ていることもあります)。

「兵事ニ関スル郡達綴」(東興除村、明治35~36年度)の画像
「兵事ニ関スル郡達綴」(東興除村、明治35~36年度)

「兵事ニ関スル郡達綴」(東興除村、明治35~36年度)の画像
「兵事ニ関スル郡達綴」(東興除村、明治35~36年度)

「津高郡招魂祭費寄附金」(今保村、久米村、白石村、花尻村、明治17年10月)の画像
「津高郡招魂祭費寄附金」(今保村、久米村、白石村、花尻村、明治17年10月)

「津高郡招魂祭費寄附金」(今保村、久米村、白石村、花尻村、明治17年10月)
 少し時間をさかのぼって、明治17年の文書ですので、和紙に毛筆で書かれ、江戸時代の古文書にも用いられる横帳の形式で作られています。
 これは津高郡で行われる招魂祭のために、4村で募られた寄附金の帳面の控えとみられるものです。表紙に、今保村57銭、久米村28銭、白石村30銭、花尻村20銭で、合計1円35銭とあり、村の戸長から招魂祭へあてて出されています。
 なお、戸長とは、江戸時代の庄屋や名主などの呼称を改めて、明治22年の市町村制の制定で市町村長の名称が始まるまで用いられていた、基礎自治体の首長の名称です。

「日露戦役大野村出身軍人略伝記」(大野村、明治37~38年)
 大安寺村、北長瀬村などが明治22年に合併してできた大野村は、昭和27年に岡山市へ編入されました。この簿冊には、日露戦争でこの村から出征して戦没した8名の兵士の略歴がまとめられています(この資料は画像掲載なし)。


出征軍人家族援護会の書類(生石村、明治37~38年)から、援護会規約の画像
出征軍人家族援護会の書類(生石村、明治37~38年)から、援護会規約

出征軍人家族援護会の書類(生石村、明治37~38年)
 日露戦争で多数の兵士が出征しましたが、そのときの生石村(昭和30年に高松町へ合併し、昭和46年に岡山市へ編入)の留守家族への援護会の書類がまとまって伝わっています。内容は、援護会規約、会費の徴収簿、会費の収支日計簿、援護金支払簿、領収証の綴り、会費・葬儀費の徴収簿、明治38年度半期の収支予算書です。
 これは村民から援護金を募って留守家族に給付するために設けられた会ですが、その規約をみると、事務所は役場内に置かれ、会長は村長が務め、事務も役場の職員によって行われています。


出征軍人家族援護会の書類(生石村、明治37~38年)から、会費徴収簿の表紙の画像
出征軍人家族援護会の書類(生石村、明治37~38年)から、会費徴収簿の表紙


「支那事変死傷者負債整理事務関係綴」(三蟠村、昭和14年)の表紙の画像
「支那事変死傷者負債整理事務関係綴」(三蟠村、昭和14年)の表紙

「応召従軍軍人ノ軽減地租調理簿」(真金町、昭和12~13年)
 働き手を応召された家庭に対して行われた、地租軽減措置の台帳です。最も多くの事例で地租額が半減されており、この台帳ではそれが最大の軽減額です。昭和に入って経済恐慌などを経るにつれ、輿論の強い声によって、留守家族への援護が政府の施策としても進められていきました(この資料は画像掲載なし)。

「支那事変死傷者負債整理事務関係綴」(三蟠村、昭和14年)
 当時は支那事変と呼ばれていた、日本と中国(国民党政府)の全面的な戦争である日中戦争のときの書類です。戦争で死傷した兵士の家族が負債を抱えていた場合、それを整理するために昭和13年から実施された臨時農村負債処理法について、役場での対応に備えて、法律の内容や各種の手続きについて説明する資料を綴ったものです。


(3)戦没者の市町村葬

 真金町と芳田村の役場には、昭和6年の満州事変から急激に増加して行った戦没者の市町村葬の詳しい記録が残っていました。
 戦没の知らせは所属の連隊や呉の海軍司令部から兵士の出身地の市町村長へ電報(公電)で届けられます。この第一報を受けて葬儀の準備が始まりましたが、昭和7年の芳田村の文書には、まだ初めてのことで実施方法の詳細がわからず、すでに行ったことのある他の村へ照会を行った記録が綴じられており、そのようにして各地の市町村で行われた葬儀が同じような形式に揃っていったことがうかがえます。
 市町村葬は役所や役場が主催して行われるもので、喪主や葬儀委員長を市町村長が務め、副委員長には助役や地域の在郷軍人会長などが就き、葬儀のさまざまな事務(開催の通知、来賓への案内状の送付、当日の受付、式場の設営、来賓への対応など)は役場の職員が分担して行っていました。
 こうして準備を進めつつ、軍からの連絡を待って、遺族と役場の主要な職員で呉港や神戸港まで遺骨を迎えに行きます。葬儀の当日は、招待された来賓と遺族、および役場から参加を呼びかけられた多数の住民や学校児童らが沿道に並んで出迎えを行い、その後で学校の校庭や講堂、あるいは公会堂などを会場にして葬儀が行われました。市町村葬では、兵士の死を悼むとともに、戦場で命を捧げたことが名誉ある行為として顕彰されました。

<展示品>

「戦没者村葬記録」(芳田村、昭和7年~8年)
 昭和6年の満州事変から戦没者が再び増加しますが、市町村主催の葬儀の詳細な記録が、芳田村(西市村、当新田村などの合併で明治22年に成立し、昭和27年に岡山市へ編入)と、真金町(川入村、宮内村、板倉村から成立した真金村が、昭和4年に町制施行。昭和35年に高松町へ合併し、昭和46年に岡山市へ編入)に伝わっています。
 芳田村の村葬記録(昭和7年~8年、昭和12年~20年の2冊があり、このうち今回は昭和7年~8年のみ展示)では、昭和7年の当初には実施方法の詳細がわからず、久米郡吉岡村、英田郡豊田村、児島郡興除村へ照会し、回答を得ています((読み下し)「戦死者村葬に関する件 首標の件に関し本村に於ても近き内執行さるる予定にこれ有り候(そうろう)、就ては御多用中とは存じ候へども参考資料として承知致したく候条、過般貴村に於て執行あい成り候戦死者村葬に対する左記事項御回報煩いたく此の段照会に及び候なり」とあり、これによって照会に応じた各村での実施方法の概要もわかります)。
 また、添削を加えた原稿書類も多数綴じられており、早い頃の文書の中には、はじめに多くの箇所で「村民葬」と書き、あとから朱文字で「村葬」に訂正している書類もありました。芳田村の村葬は、芳田小学校の校庭で行われました。

「戦没者村葬記録」(芳田村、昭和7年~8年)の画像
「戦没者村葬記録」(芳田村、昭和7年~8年)

「戦没者村葬記録」(芳田村、昭和7年~8年)から、冒頭に綴じられた実施方法の照会文の控えの画像
「戦没者村葬記録」(芳田村、昭和7年~8年)から、冒頭に綴じられた実施方法の照会文の控え

「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)
 昭和13年以来の町葬の記録が残っている真金町の綴りでは、幾分混乱があり、雑然とまとめられています。その中から昭和15年8月25日に鯉山小学校で行われた2名の兵士の合同葬の詳細を紹介しています。
 この葬儀では町長が喪主を、在郷軍人会長が葬儀委員長を務めています。
 陸軍上等兵だった1名は、中国河北省で5月22日に戦死し25日午後2時に連隊から町長あてに公電が届きました。役場ではその日の午後8時から緊急会議を開き、職員が午前2時まで対応に当たったことが、続いて綴じられている書類に記されています。さらに、多数の添削が加えられた案内状の原稿や、葬儀委員の名簿、葬儀の係員の氏名と分担表、印刷された来賓への案内状、葬儀当日の来会者への配布物(葬儀次第書、参列員玉串奉奠焼香弔辞順序、戦没兵士の略歴)などが綴じられ、やむを得ず葬儀を欠席することを知らせる岡山県町村会長の書簡で終わっています。
 海軍一等水兵だった別の1名は、6月13日に南支方面で戦死し、翌々日に呉の海軍司令部から町長あてに戦死の公電が届きました。喪主と遺族が呉へ遺骨を迎えに行ったときの海軍からの通知文や、戦没者が出征前は板金会社の職工だったことから、勤め先の会社の社長から町長へあてて届けられた弔辞も一緒になっていす。
 そのほか、葬儀当日に沿道で住民や関係者が行った遺骨の出迎えと、葬儀式場における祭壇と列席者の配置図や、葬儀の情景を記録した写真も残されています。写真からは、葬儀は校庭で開催される予定のところ、実際は講堂で行われたことがわかります。

昭和15年8月25日に鯉山小学校で行われた真金町の町葬の画像
昭和15年8月25日に鯉山小学校で行われた真金町の町葬

「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、連隊から町長へ届いた公電の画像
「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、連隊から町長へ届いた公電

「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、緊急会議のメモの画像
「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、緊急会議のメモ

「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、葬儀係員氏名の画像
「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、葬儀係員氏名

「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、遺骨凱旋(原稿の画像。展示には完成したものを出しています)の画像
「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、遺骨凱旋(原稿の画像。展示には完成したものを出しています)

「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、式次第の画像
「町葬関係書類」(真金町、昭和13年~)から、式次第

岡山市葬の書類
 先に紹介した芳田村の戦没者村葬記録の綴りの中に参考資料として、市内中心部の深柢小学校(当時は国民学校)の講堂で行われた昭和20年4月の岡山市葬の案内状(式次第と53名の戦没者の住所と氏名、および焼香者とその順序が印刷されている)が挟み込まれていました。戦前の岡山市の中心市街地は昭和20年6月29日の岡山空襲で罹災したので、多数の戦没者を合同で慰霊した昭和20年の市葬の様子は、こうして残された資料から辛うじてうかがうことができます。

「戦没者村葬記録」(芳田村、昭和7年~8年)に参考書類として挟み込まれていた岡山市葬の書類の画像
「戦没者村葬記録」(芳田村、昭和7年~8年)に参考書類として挟み込まれていた岡山市葬の書類

(4)敗戦と引揚げ

 種々の統計や推計によって大きな差があるものの、おおむね日清戦争では約24万人が動員されて1万3800人余が死亡し、日露戦争では約109万人が動員されて約8万7300人余が死亡(約14万3000人が戦傷)しましたが、いずれも戦没者の大半は兵卒でした。そして満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に至るまでの15年間の戦争では、二百数十万人の軍人と百万人を超える軍属と民間人が死亡しましたが、昭和20年に日本の総人口が7200万人余りであったのに対して、そのときの兵士への動員数は700万人を超えていました。
 敗戦時にはそれら応召された兵士の約半数が外地にあったので、戦後は召集を解除された復員兵の引揚げが陸続と行われました。全国各地の役場では、戦没者の遺族・遺児や未帰還兵の名簿が慌ただしく作成されましたが、慰霊と援護のための事務は現在まで続けられています。

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