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(4月~6月)高浜虚子と平松措大 ~狭霧会と岡山の俳句~

会期 平成29年4月15日(土)~6月4日(日)
場所 2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 現在の岡山市東区瀬戸町などを拠点に句会「狭霧会」(さぎりかい)を指導し、句集「さぎり」を発行したホトトギス派の俳人、平松措大(ひらまつそだい)の遺族から、昨年度末に措大の師の高浜虚子が「狭霧会」と揮毫(きごう)した扁額(へんがく)が当館へ寄贈されました。
 つきましてはこれを機に、高浜虚子と平松措大のつながりを中心に、岡山県南で活躍した他の俳人数名の活動もあわせて、岡山における俳句の歩みをたどります。

岡山地方の近代俳句の流れの中で

 五七五の十七文字に季題を込める短詩は、室町時代に連歌から分かれ(俳諧)、明治期に正岡子規(まさおかしき)が写生に立脚する近代俳句を創始して、その精神を門人の高浜虚子(たかはまきょし)と河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が受け継ぎました。このうち『ホトトギス』誌を発行した高浜虚子に学び、岡山地方へホトトギス派の俳句を広めた俳人のひとりに平松措大(明治31(1898)~昭和61(1986)年)があります。
 措大は県立瀬戸高等女学校(現在の県立瀬戸高等学校)の教師に赴任した大正14年に生徒たちに句作を指導して句会を結成し、秋霧の美しい瀬戸町の風光にちなんで「狭霧会」と名付けました。この会は一般にも広がって多くの門人を育て、句誌「さぎり」は戦時中の出版統制にも耐えて長く続きました。
 平成29年3月に措大の遺族から、彼の自宅(他炊庵)の句会を行ってきた部屋にずっと掲げられていた高浜虚子筆の扁額「狭霧会」が当館へ寄贈されました。本展示ではこれを機に、扁額と当館所蔵の虚子と措大の著作に瀬戸町図書館所蔵の措大の書軸を加え、岡山県南部で活躍した他の俳人をあわせて、虚子と措大の関係を糸口に岡山の近代俳句の流れをたどります。

(1)高浜虚子とホトトギス派の俳句

 高浜虚子(明治7(1874)~昭和34(1959)年、本名、清)は愛媛県松山市出身の俳人・小説家で、旧制中学校在学中に同級の河東碧梧桐とともに正岡子規と知り合い、仙台の第二高等学校に進学するものの、文学への思いから碧梧桐とともに退学し、上京しました。
 虚子は明治31(1898)年から同人誌「ホトトギス」の経営権を得て発行を続け、明治38(1905)年には夏目漱石の「吾輩は猫である」を掲載して読書界の注目を集めると、著名な文学者が執筆するようになり、それは文壇の主要誌の地位を確立しました。このホトトギス誌に拠った虚子は、「日本新聞」に拠る碧梧桐とともに明治・大正・昭和前期の俳壇をリードする存在でした。
 虚子はホトトギス誌の選者として全国の門人を指導し、俳句に関する数々の論考も執筆しました。昭和29(1954)年には文化勲章を受章し、昭和34(1959)年に鎌倉で永眠しました。
 代表句とされるのは「遠山に日の当たりたる枯野かな」「桐一葉日当りながら落ちにけり」「流れ行く大根の葉の早さかな」などで、日常の一齣をさりげなく詠みながら、心に深くしみ通る作品を残しています。

(展示品)
・高浜虚子の著作(いずれも当館蔵)
 『五百句』(初版は昭和12(1937)年、展示品は昭和44(1969)年の復刻版で、児童文学者、坪田譲治の旧蔵書です)
 『明治大正文学全集 第21巻』(昭和3(1928)年、春陽堂書店。明治30年代末の高浜虚子と長塚節の作品が収録されています。序文は夏目漱石。展示品は坪田譲治の旧蔵書)
 『俳句は斯く解し斯く味ふ』(初版は大正7(1918)年、展示品は1938年の新潮文庫第9版。俳句の読み解き方をわかりやすく提示したものですが、初期の俳句論として重要)
 『小諸雑記』(昭和21(1946)年、青柿社、初版本、随筆。戦中戦後の4年間、信州の小諸へ疎開していたときは、現在広く知られている秀句が多数作られた時期でした)
 『虹』(昭和22(1947)年、苦楽社。「虹」など4作の小説が収録されています。展示品は初版本で坪田譲治の旧蔵書)
 『俳諧歳時記 春』(昭和22(1947)年版。初版は昭和8(1933)年、改造社。春、夏、秋、冬、新年の5冊からなり、いずれも多人数で執筆されていますが、春と冬の巻は高浜虚子が主著者です)
 『俳諧歳時記 冬』(昭和24(1949)年版。初版は昭和8(1933)年、改造社。高浜虚子が主著者)
 『俳句の五十年』(昭和24(1949)年、中央公論社。俳句の歩みを述べたもの)
 『虚子秀句』(昭和27(1952)年、中央公論社。明治26(1892)年以来の秀句を虚子自身が選抜したもの)
 『虚子自伝』(昭和30(1955)年、朝日新聞社)
 『虚子選 ホトトギス雑詠選集 春・夏』(昭和37(1962)年、新樹社)、『虚子選 ホトトギス雑詠選集 秋・冬』(昭和37(1962)年、新樹社)(ホトトギス誌に応募された多数の句の中から虚子が選んで掲載された作品の選集で、この中には平松措大の句も数十点収録されています)
 『虚子俳話』(昭和44(1969)年、新樹社。虚子が晩年にまとめた俳句論として重要なもの)
・扁額『狭霧会』(高浜虚子筆)

高浜虚子「狭霧会」扁額の画像
高浜虚子「狭霧会」扁額

(2)平松措大と狭霧会

 平松措大(本名、芳夫)は、明治31(1898)年に現在の岡山市北区内山下に生まれ、第六高等学校を経て京都帝国大学法学部で学びました。
 京大在学中にホトトギス派の野村泊月(のむらはくげつ)、鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)、日野草城(ひのそうじょう)に俳句を学び、高浜虚子を終生にわたって師と仰ぎました。広島市の広陵中学校、岡山県立瀬戸高等女学校、笠岡商業学校などで英語教師を勤めましたが、昭和19(1944)年に俳句に専念するため教職を辞し、昭和20(1945)年にホトトギス同人に選ばれました。
 狭霧会は瀬戸高等女学校在職中の大正14(1925)年に生徒たちに句作を指導したことから結成され、会誌「さぎり」を初めは謄写版摺りで、やがて活版摺りで発刊しました。この間の事情は、『さぎり句集』(1930年)の2~3頁に下記のように記されています。

「二度の大病を煩つて人生観が変つた私には、この山紫水明の瀬戸の自然が限りなき慰めであつた。京都に於て三人の先生によつて正しく植ゑつけられた俳種は、爽気天地に漲る頃、油然として私の胸に萌えて来た。私は躊躇なく今までの汽車通勤を廃して、現在の他炊庵に居を卜したのである。
 忘れもせぬ、九月某日名月の夜。今はなき旧寄宿舎・・・もと酒倉であつたといふ、壁の厚い暗い建物で、階下が職員室であつた・・・その寄宿舎の二階の露座で、寮生十余人が月見の宴を張つたことがある。当時食養生のため舎監生野先生に食物の指示を受けてゐた私は、この宴に招かれて円座に加はつた。寮生達は愉快相に語らひ歌ひながら、皎々と冴え渡る月を仰いでは色々の讃美の言葉を発した。私は月光の中に溶け合つてゐるこの一団を見つめながら、生徒の口から漏れる無垢な言葉と、其純真な姿を見た。私は舎監に乞うて、数枚の紙を貰ひ、これを小さく短冊に切つて「何でもよろしいから、この月を見たまま、感じたままを十七文字にして見なさい」と言つた。
 狭霧会は実にこの時に創立したのである。」

 会の創設から5年目の昭和5(1930)年には『さぎり句集』が刊行されましたが、ここに収載された女学生たちの清新な句が中央文壇で高い評価を受け、指導者の措大の名は大いに高まりました。学校生徒の句会として始まった狭霧会は、やがて一般へ広がり、「さぎり」誌は戦時中の出版統制に際しても存続を許されて、昭和27(1952)年まで「きび」(虚子の命名)と改名するも、昭和58(1983)年まで600号を超えて継続し、多数の門人を育てました。
 措大は笠岡商業学校への勤務にともなって笠岡へ転居したのち、昭和36(1961)年から再び瀬戸町(現在の岡山市東区瀬戸町)に住み、「他炊庵」と名付けた居宅で句作と門人の指導に励んで、昭和61(1986)年に永眠しました。昭和50(1975)年に叙勲(勲五等宝冠章)。そして岡山県文化賞、三木記念賞、中国文化賞などを受賞しました。

(展示品)
・狭霧会の句集、句誌(当館蔵)
 『さぎり句集』(昭和5(1930)年、狭霧会)
 句誌『さぎり』(狭霧会)(昭和6(1931)と昭和17(1942)年の各数冊を展示。題字は高浜虚子)
 句誌『きび』(狭霧会)(昭和20(1945)年の数冊を展示。題字は高浜虚子)
・平松措大の著書(当館蔵)
 『措大句集』(昭和26(1951)年、狭霧会。序文は高浜虚子)
 『第二措大句集』(昭和33(1958)年、狭霧会。序文は高浜虚子)
 『第三措大句集』(昭和39(1964)年、狭霧会)(このほか第四句集まで出版されていますが、展示品はここまでです)
 『他炊庵夜話』(昭和30(1955)年、狭霧会)(折々に書かれた文章を収録したもの)
 『岡山県俳人百句抄20 平松措大集 鵲の橋』(昭和58(1983)年、手帖舎。解説は山本遺太郎)
・平松措大の書(瀬戸町図書館蔵)
 「俎(まないた)に冷えけむりたる大西瓜」(軸装)(『措大句集』174頁に「俎板に冷えけむりたり大西瓜」で収録されています。同書に寄せた高浜虚子の序文(序3頁)で、「冷えけむりたるとはよく言ったもの。つめたく冷えた西瓜を鉋丁で眞つ二つに切つた時の様子が想像される」と紹介されています)
 「楼門の双樹の沙羅の呼ぶ雲か」(軸装)(昭和27年8月3日に高野山で詠んだ句で、『第二措大句集』68頁に収録されています。本ウェブページの末尾に画像を添付しています)
 「月出づと譜を投げ合うて蟲(むし)乱舞」(軸装)(昭和27年9月15日に備中井山般若院における総社狭霧観月句会で詠まれた句で、『第二措大句集』94頁に収録されています。末尾に画像添付)
 「鳥雲に杭(こう)せば川を梳(くしけず)り」(軸装)(『措大句集』48頁に収録されています。末尾に画像添付)

平松措大の書『俎(まないた)に冷えけむりたる大西瓜』(瀬戸町図書館蔵)の画像
平松措大の書『俎(まないた)に冷えけむりたる大西瓜』(瀬戸町図書館蔵) 

(3)岡山県南の戦後の俳句

 岡山を中心とする地方で活躍した俳人は江戸時代から現代まで多くあり、数名を選ぶのは大変難しいことですが、ここでは展示スペースと当館での資料の所蔵状況から下記の4名を取り上げ、地域の俳句史の流れを大づかみに紹介します。このコーナーの展示品はいずれも当館所蔵です。

・三木朱城(しゅじょう)(本名、修蔵 明治21(1888)年~昭和49(1974)年)
 香川県小豆島出身の俳人。俳句は医師・俳人であった父、三木蜻州(せいしゅう)から手ほどきを受け、終生、高浜虚子に師事しました。南満州鉄道に入社して大陸で俳句を指導し、昭和9(1934)年にはホトトギス同人に選ばれるものの、敗戦で引揚げて岡山へ移住します。俳誌『旭川』(きょくせん)の選者となり、やがて同誌を主宰するようになって多くの門人を育て、岡山県内では狭霧会と並ぶホトトギス派の有力な会を指導しました。
(展示品)
 句誌『旭川』(題字は高浜虚子。昭和24(1949)年から3冊を展示しています。)

・橋本魚青(ぎょせい)(本名、富三郎 明治19(1886)~昭和30(1955)年)
 滋賀県出身の実業家。倉敷紡績に入社し、同社の工場長などを経て昭和14(1939)年から合同新聞社(現在の山陽新聞社)社長。敗戦後の昭和20(1945)年に岡山市長に選ばれて戦災で荒廃した市街地の復興に意欲を燃やしましたが、戦時中に報道機関の経営にあたったことから公職追放となり、昭和22(1947)年に任期半ばで辞任しました。俳句は大阪の俳人、松瀬青々(高浜虚子らと並んで『俳諧歳時記』(改造社)で秋の巻の主要な編著者をつとめた)に学んで造詣が深く、はじめは本名の読みから風餐楼(ふうさんろう)、公職引退後は魚青と号し、合同新聞社発刊の『合同俳句』の選者にもなりました。
(展示品)
 書『松栄』(軸装)
 句集『魚青句鈔』(昭和30(1955)年。自選私家版。岡山市史編纂委員をつとめた歴史家の巌津政右衛門からの寄贈本)
 句集『魚青句鈔』(昭和43(1968)年。本人の没後に各所に発表されていた遺作を知友が集めて出版したもの)

・谷口古杏(こきょう)(本名、久吉 明治22(1889)年~昭和43(1968年)
 津山市出身の実業家。中国銀行副頭取、合同新聞社および山陽新聞社社長、そして初代の山陽放送社長を歴任しましたが、俳句や茶道にも深く通じ、戦前から同人となっていた俳誌『白道』を戦後に『合同俳句』と改題して各流派に開放しました。日展誘致、文化財保護、新制岡山大学の発足など多方面に尽力し、戦後の岡山の文化に大きな足跡を残しました。
(展示品)
 句集『萩の塚句集』(昭和16(1941)年。戦前に出版された折本形式の句集です。展示品は歴史家で岡山市史編纂委員をつとめた岡長平の旧蔵書)
 句集『杏』(昭和33(1958)年)
 句集『白百合』(昭和40(1965)年。橋本富三郎(魚青)が序文を寄せ、竹内清が挿画を描き、山本遺太郎が校正を行っています。巌津政右衛門への献辞があり、のちに同氏から当館へ寄贈された本です)
 句集『吉備国原』(昭和44(1969)年)
 句誌『合同俳句』創刊号(昭和23(1948)年)

・西村燕々(えんえん)(本名、繁次郎 明治8(1875)年~昭和31(1956)年)
 大津市出身の報道記者。戦前に中国民報記者、副編集長、夕刊編集長を勤め、俳人および俳句史研究者として知られ、俳誌『唐辛子』の運営にあたりました。戦後の昭和23(1948)年には、俳文学関係の蔵書1286冊が橋本魚青の勧めによって当館へ寄贈され、「燕々文庫」と名付けられました。それらは全国及び岡山の俳句史研究にとって貴重な資料となっています。
(展示品)
<「燕々文庫」から>
 岡本胤及(いんきゅう)『鉋(かんな)屑集』(原本は万治元(1658)年。展示品は西村燕々らによる昭和10年代の写本)(西村燕々は俳句史研究のため多数の蔵書家から貴重な書物を借覧して熱心に書写しましたが、それらの中には現在では原本の所在がわからなくなっており、燕々の手写本によって貴重な情報が伝えている例がしばしばみられます)
 佐々木松後(しょうご)『法の月』(寛政6(1794)年。佐々木松後(屋号、淀屋)は学問・芸術・文化に造詣が深かった岡山城下町きっての豪商で、俳諧の方面でも書物をしばしば刊行しています。燕々文庫には佐々木家の人々が関係した俳諧書が多数含まれています)
 熊代任侘斎(にんたさい)ほか『春興 朝日河』(寛政11(1799)年~天保7(1836)年の各巻。佐々木松後の門人の任侘斎や、息子の松雨(しょうう)らが刊行を続けた句集で、備前の人々の句が多数収録されています)
<燕々の著書>
 西村燕々『岡山俳諧略史』(昭和12(1937)年、手稿。中国民報の便箋に書かれた手稿ですが、岡山の俳諧史が要領よく概観されています。)
 西村燕々『吉備俳諧略史』(昭和16(1941)年、岡山県郷土史学会。薄い冊子ですが内容は豊富で、岡山地方の江戸時代からの俳諧史を鳥瞰できる燕々の広く知られた著書です。展示品は岡長平の旧蔵書)

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