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(1月~3月)坪田譲治展 ~故郷への思い

会期 平成29年1月5日(木)~3月5日(日) 
   休館日 毎週月曜日(ただし1月9日(祝)は開館)
場所 岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール前展示コーナー

 岡山市立中央図書館では例年、坪田譲治文学賞(岡山市主催)の発表時期にあわせて関連資料の特別展示を行ってきましたが、このたびは所蔵品から生家と故郷にまつわる資料と、10代の多感な一時期でもあった旧制中学時代を知るための参考になる資料を中心に展示を行います。
 これにより、彼の作家としての自己形成の糧となり創作を支えた故郷への思いを、師友との関係なども含めて紹介します。

坪田譲治と、ふるさと岡山への思い

 岡山市立図書館は平成28年度に設立100周年を迎えましたが、岡山市出身の児童文学者、坪田譲治の関係資料を遺族等(おもに長男の坪田正男氏と三男の坪田理基男氏)からの寄贈により多数所蔵しています。譲治は東京で作家活動を行いましたが、終生にわたり故郷の記憶を大切にし、生まれ育った岡山の田園地帯の情景を数々の作品の着想源にしています。
 このたびの企画展示では、生家と故郷にまつわる資料と旧制中学時代の師友との関係を物語る資料をすべて当館の所蔵品から展示し、作家の故郷への思いをたずねてみます。

1 作家と故郷

 現在の岡山市出身の児童文学者、坪田譲治(1890(明治23)年~1982(昭和57)年)は、当時の岡山市街を西へ少しだけ外れた、岡山駅にほど近い御野郡石井村字島田(現、岡山市北区島田本町)に生まれました。坪田家の祖先は村の豪農であり、本家から分かれて事業を起こした父の平太郎は、ランプ芯やろうそく芯を製造する島田製織所を経営して成功していました。
 18歳で早稲田大学予科へ進学し、小川未明、鈴木三重吉、山本有三らと出会って文学を本格的に学ぶまでは、譲治の生活のおもな舞台は故郷の岡山の農村であり、彼の文学の世界は心に深く刻まれたふるさとの田園風景を背景にして形作られました。
 ところが父の早世で兄の醇一が会社を継ぎ、はじめのうちは譲治も時折故郷へ帰ったり大阪支店長を務めたりして経営を手伝っていましたが、彼の作品からうかがうに一族間での争いもあって、譲治は40歳を最後に会社の経営から離れ、東京で極度の貧窮の中、文学一筋の道を進むことになりました。
 そして40歳代半ばを過ぎる昭和10年代に相次いで単行本化された『お化けの世界』『風の中の子供』『子供の四季』の3作によって、ようやく文壇に地歩を確立し、子どもたちの視点から社会を見つめる斬新な小説世界を切り開き、日本の児童文学に大きな足跡を残しました。

(展示品)
〇坪田譲治の生家の鬼瓦(坪田久氏寄贈)(現在は、用水路にかかった石橋や楠など、いくつかの名残りしかない譲治の生家について、その規模が偲ばれます)
〇島田製織所製 家庭用アイスクリーム製造器(坪田久氏、坪田醇氏寄贈)
〇綱島賢一作 油彩画「坪田譲治生家裏の土蔵 其ノ(1)」1984(昭和59)年(坪田正男氏寄贈)
〇写真パネル「生家の中庭にて」(昭和30年2月)(坪田正男氏寄贈)
〇写真パネル「生家土蔵前にて」(昭和30年)(坪田正男氏寄贈)
〇坪田譲治書 色紙「故郷に花静なる田園あり」(坪田理基男氏寄贈)
〇坪田譲治書 色紙「古里の小川にまだ鮒は居るだろうか」」(坪田理基男氏寄贈)
〇坪田譲治書、伊丹政野画 色紙「故郷の花なり名を知らず」(坪田正男氏寄贈)(花の絵を描いた姉との合作の色紙です)
〇坪田譲治 自筆原稿「京山の思出」(坪田正男氏寄贈)(旧制中学時代に岡山駅の西方にある京山へ登り、岡山城を遠望したときの思い出を綴った随筆です)
〇坪田譲治著 『故園随筆』(十一組出版部、1943(昭和18)年)(坪田文庫)(この著作には郷里を回想した随筆が多数掲載されています。表紙は梅原龍三郎に学び国画会で活躍した洋画家、中村好宏が装丁を行っています)

家庭用アイスクリーム製造器(島田製織所製)の画像
家庭用アイスクリーム製造器(島田製織所製)

2 坪田譲治の旧制中学時代

 坪田譲治は岡山市立石井小学校を卒業すると、岡山市丸の内(現、岡山市北区丸の内)の養忠学校へ明治35年4月に入学しました。これは岡山の旧藩主の池田家や家老を務めてきた日置家の援助によって明治17年に旧制岡山中学の予備学校として発足した学校ですが、譲治が2年生であった明治37年に、岡山市内を縦貫する旭川を遡ったところで、校長の日置健太郎の旧領地であった金川へ移転して五年制の旧制金川中学校(第二次大戦後、岡山県立金川高等学校を経て現在の岡山県立岡山御津高等学校)へ改組されたので、譲治は明治40年3月の卒業まで岡山駅から金川駅まで中国鉄道(現在のJR津山線)の汽車で通学しました。金川から宇甘(うかい)川を遡った紙工(しとり)天満(現、岡山市北区御津紙工)には、姉の政野も医師の伊丹東慶のもとへ嫁いでいました。
 後年の文章(随筆『読書の思い出』朝日新聞社、1954(昭和29)年に初出、新潮社版『坪田譲治全集』第12巻では237~239頁。および新潮社版『坪田譲治全集』第9巻「あとがき」など)によると、譲治はこの時期に文学への関心を高めたようで、「私が文学的になっていたのは中学四、五年のころからだ」(『読書の思い出』)と回想して、その頃に夢中で読みふけった書物を記しています。このうち薄田泣菫の『白羊宮』と『暮笛集』、綱島梁川『病間録』は、譲治が金川中学に在学していた時期に印刷・刊行された本(いずれも明治39年、金尾文淵堂刊。ただし『暮笛集』は第3版で(初版は明治32年)他は初版)が当館にあり、彼が手に取って愛読した本そのものではないものの、同様の本である可能性の高いものを展示します。
 このほか遺族から当館へ寄贈された坪田譲治の旧蔵書(「坪田文庫」と称しています)にある横瀬夜雨の『花守日記』は、刊行年が記されていませんが、本の体裁から前記の3冊に近いものかと見受けられます。
 また、「ロビンソン・クルーソー」、「アラビアン・ナイト」、「唐詩選」、土井晩翠『天地有情』は、坪田文庫にある本が展示されています。いずれも譲治の旧制中学時代より後に出版された本ですが、譲治が少年期から愛読したというそれらの書物は、彼が後年にもさまざまな版を入手して自身の文学の糧としていたことがわかり、しかも後進の児童文学者を育てる場として1961(昭和36)年に彼が自宅の一角に設けた「びわのみ文庫」の蔵書にもなっていたものです。
 この中で「ロビンソン・クルーソー」は、旧制中学より少し前の小学校6年生(当時は尋常科4年、高等科2年であったので、実際は高等科2年生)のとき、級友から教えられて夢中になって読んだ本ですが、子どもたちをわくわくさせ、最後まで一気に読み通させる書物として、後年の随筆や文学論の中でもたびたび言及されています(たとえば「班馬鳴く」所収の「教育の回想」(新潮社版『坪田譲治全集』第12巻、103~105頁)および「新修児童文学論」所収の「児童文学論」(新潮社版『坪田譲治全集』第12巻、162頁)と、同「読書の思い出」(新潮社版『坪田譲治全集』第12巻、237頁)など)
 さらに「唐詩選」については、彼の旧蔵書(坪田文庫)から最も詳しい解説と注釈がつけられた簡野道明『唐詩選詳説』(上・下)(明治書院、1929(昭和4)年に初版、譲治の旧蔵書は1937(昭和12)年の第13版)を展示しましたが、坪田文庫にはこのほかにも繁・簡多様な多数の版があり、彼の漢詩への傾倒ぶりがうかがえます。
 譲治の回想にある書物で今回展示しているのはこれだけですが、先述の随筆『読書の思い出』では、このほかに上田敏『海潮音』、国木田独歩『独歩集』、島崎藤村の詩、田山花袋『文章世界』、およびトルストイらのロシア文学なども、旧制中学を中心とする時期に愛読されたことが記されています。
 なお、譲治が文壇における地位を確立した代表作のひとつ、『風の中の子供』は、金川付近で旭川へ合流する宇甘(うかい)川の流域や、宇甘川を遡ったところの紙工(しとり)天満にあった姉・政野の嫁ぎ先(伊丹家)をモデルとする情景が途中に効果的に挿入されています。当館には1936(昭和11)年の初版本(竹村書店刊)はありませんが、この作品の以後の諸本を展示しています。

(展示品)
〇上記で紹介した書物(新潮社版『坪田譲治全集』を除く)
〇写真パネル「伊丹東慶の屋敷(譲治の姉・政野の嫁ぎ先)」(小合信恵氏寄贈)
〇写真パネル「岡山市立図書館50周年記念講演会 ―館長室にて姉伊丹政野と―」(昭和41年)(坪田正男氏寄贈)(岡山市立図書館では、1966(昭和41)年に開館50周年を記念して坪田譲治を講師に迎えて講演会を開催しており、そのとき控室となった館長室での情景です。なお、当時の市立図書館本館は岡山市北区幸町にありました)
〇写真パネル「「びわの実学校」編集同人等と郷里岡山へ」(昭和43年5月)(坪田正男氏寄贈)
〇小穴隆一作 油彩画「T君」1940(昭和15)年頃 (坪田正男氏寄贈)(春陽会に属した洋画家で、芥川龍之介や坪田譲治ら文学者の著作の装丁や挿絵も行った小穴隆一による、昭和16年の春陽会へ出品されたという肖像画です。譲治がようやく文壇に地歩を占めることができた50歳頃の姿です)
〇小穴隆一 自筆原稿「童話作家と故郷」(坪田理基男氏寄贈)(随筆家としても知られた小穴隆一が、童話作家の創作の基礎には幼年時の故郷の記憶があるとして、宮澤賢治や坪田譲治や浜田広介など、数名の作家の故郷を訪ねたときのことを綴っています)

薄田泣菫の『暮笛集』(1906(明治39)年第3版)と『白羊宮』(1906(明治39)年初版)の画像
薄田泣菫の『暮笛集』(1906(明治39)年第3版)と『白羊宮』(1906(明治39)年初版)

3 養忠学校~金川中学で出会った人々

 金川中学は、岡山藩の家老の子孫である日置健太郎(のち男爵)の尽力で、彼のかつての領地に旧制中学校として整備されました。彼に続いて豊田恒雄が校長を務め、教師には沼田頼輔、山田貞芳、蔵知矩、羽生芳太郎(永明)など、後に岡山地方の歴史や文学史の研究で優れた業績を残す俊才が集い、有為な人材を育てていましたが、譲治はこれら師友の謦咳(けいがい)に触れて10代のひとときを過ごしています。
 ただし、譲治が後年に書いた文章では、学校の教室で行われていた教育そのものへの思いは必ずしも強くなく、中学時代のことも、そして早稲田大学予科における授業についても、あまり多くを述べていません。彼にとって本当に大切だったのは、小川未明や、鈴木三重吉、山本有三のような文学者たちとの出会いだったはずで、文学とは何かということを彼らから本格的に学び、作家として自己形成をなしえたことを感謝して、たびたび振り返っては思い出を書き記しています。これと比べると、金川中学の教師たちについては、彼らがもとより立派な先生であったことは認めていますが、「先生で深い感化を受けたと思える人が一人もいない」とまで述べています(「わが師・わが友」、新潮社版『坪田譲治全集』第12巻、254~271頁のうち256頁)。
 しかし、金川中学の後身の県立金川高等学校で編纂された八十年記念誌『臥龍』(1963(昭和38)年)のために書いた譲治の寄稿文(「金川中学の思い出」同書89~92頁)では、金川までの通学途上で目にした風景、とりわけ桃畑が広がる牧山のあたりの美しい眺めを称揚した上で、当時の級友や恩師を懐かしい思いで振り返っており、その文章には温かみがあります。 
 譲治が中学時代に巡り合った教師たちは、岡山地方の郷土史に学問的方法を取り入れ、著作を通じて歴史叙述の基礎を築いた歴史家たちです。そういうことから当館には、彼らの著書や関係資料が豊富に所蔵されていますので、このたびはそれらについても展示紹介しています。

◇沼田頼輔(ぬまた らいすけ) 1867(慶応3)~1934(昭和9)年、号・瓶堂
 神奈川県出身で、始めは山本姓。1893(明治26)年に岡山県師範学校教諭。しばらく岡山を離れたのち1903(明治36)年から金川中学教諭となり、史蹟や古文献を調査して岡山県下の考古学や歴史学の基礎を築きますが、1911(明治44)年に岡山を去り、東京で山内侯爵家の家史編纂にあたるなどしました。後年に出版された主著『日本紋章学』で学士院恩賜賞を受賞。
 金川では、ここを居城にして最盛期には備前国の西半を支配した戦国大名で、日蓮宗を熱烈に保護した松田氏の研究に打ち込み、後年になって『備前法華の由来』(1936(昭和11)年刊)や『松田氏事蹟考』をまとめています。また、岡山藩の歌人、篠岡春泉の評伝『腮髯長(あぎとのひげなが)』(1905(明治38)年)と、吉備地方の女性の伝記『吉備姫鑑』(1908(明治41)年は、まさに譲治が金川中学に在学中の頃、取り組んでいた著書です。そして『作州菅家一党勤王事蹟』は沼田の自筆稿本が当館に所蔵されているので、それを展示しています。
 譲治は『臥龍』92頁で「沼田先生も偉い先生でした。後に紋章学で、学位をとられた、有名な先生ですが、この先生は私たちに、西洋歴史を講義されました。スパルタとアテネが、武断主義と文化主義とをモットウとして、互にせり合うくだりは、今も忘れられない、名講義でした。」と回想しています。

◇山田貞芳(やまだ さだよし) 1869(明治5)年~1920(大正9)年 号・臥雲など
 岡山藩の支藩、生坂藩士の家系に生まれ、幕末維新期に活躍した岡山藩士、山田貞順の継嗣となりました。池田家の家史編纂に携わったのち金川中学教諭となり、あわせて教育家としての資質を見込まれて備作恵済会感化院(のち三門学園、現在の岡山県立成徳学校)の院長も務めました。漢文学と歴史に造詣が深く、沼田頼輔らとともに『備前軍記』『備中略史』『美作古城記』など多数の岡山地方史の古典の校訂を行ったほか(下に掲載の画像を参照)、岡山藩の漢詩人や歌人、および熊沢蕃山や津田永忠らに関する論考を発表し、1911(明治44)から第一期の岡山市史編纂委員長を務めて1920(大正9)年までに全1巻本を刊行しました。
 山田は蔵書家としても名高く、歿後には彼の私塾で学んだことのある公森太郎(大蔵官僚から朝鮮銀行副総裁などを経て中国銀行頭取を歴任)や、同僚だった蔵知矩らの尽力によって、貴重な古典籍を多数含む3540冊の蔵書が、1919(大正8)年に開館した岡山市立図書館(当時の名称は岡山市立岡山図書館)へ1928(昭和3)年に寄付されました。残念ながらそれらの大半は1945(昭和20)年6月29日の岡山空襲で戦前の図書館とともに失われましたが、特に貴重な書物88冊が直前に辛うじて疎開されています。坪田譲治は漢詩文を愛読し、深い理解を有していましたが、彼が在学した頃の金川中学では、おもに山田貞芳が漢文学を講じていました。
 『臥龍』92頁では、「山田先生は背の低い方でしたが、人格者で、感化院の院長なんかもされていました。筒袖の和服に、袴、それに高足駄をはかれ、「はっはっは。」大口をあけて笑われる姿が、今も目に残っております。」と記されています。

◇蔵知 矩(くらち ただし) 1869(明治2)~1944(昭和19)年 号・堅石、堅石園など
 岡山藩士の家に生まれ、岡山県師範学校で学び、小学校教員を経て金川中学教諭となり、1909(明治42)年以後は山陽高等女学校(現、山陽学園)などで教鞭をとり、同校教頭を経て晩年は池田家の古文書整理を行いました。山田貞芳が委員長を務めた第一期の編纂のあと、岡山市史編纂委員会で昭和初期の第二期の市史編纂に携わり、6巻本の昭和戦前期『岡山市史』の第3巻と第4巻の多くに執筆しました。
 歴史家で岡山藩政史に詳しく、『神戸事変と滝善三郎』『慶応四年正月 神戸事変の顛末』『牧野権六郎先生伝』などの岡山藩の幕末維新期の人物伝や、『備前岡山城』などの著書を残しています。松原三五郎から本格的に洋画を学んでおり、『臥龍』(17頁)によれば、金川中学校のそばに聳えていた松田氏の居城がかつて玉松城と呼ばれていたことを沼田頼輔が見出すと、蔵知が松樹をモチーフにして金川中学の校章をデザインしています。
 『臥龍』92頁では、「蔵知先生は背の高い先生で、少し青白い顔色で、御病身かと思われましたが、割に御長命で、岡山地方の歴史で、功績を残されたそうです。」と記されています。

◇羽生芳太郎(はにう よしたろう、のち永明(えいめい)) 1868(慶応4)~1930(昭和5) 号・東洋
 現在の長野県飯田市の出身で、国学院などで学んだのち、1996(明治29)年から旧制岡山中学校の教師として岡山へ赴任し、幕末の岡山藩士で歌人、国学者の平賀元義の研究を始めました。一時期郷里の飯田へ帰りますが、1906(明治39)年に再び来岡し、金川中学校や西大寺高等女学校で教えたのち、1911(明治44)年から上京して青山学院教授などを務めました。
 著作には『注解平賀元義歌集』や、遺稿が歿後に出版された大著『平賀元義』などがあります。彼が膨大な資料を集めて研究し、広く世に紹介した万葉調の歌人、平賀元義の作品は、彼の論文を通じて正岡子規に強い感銘を与えました。

◇山田耕筰(やまだ こうさく) 1886(明治19)~1964(昭和40)年
 坪田譲治が養忠学校へ入学した年には、「赤とんぼ」や「からたちの花」などの名曲で知られる作曲家、山田耕筰が、姉の夫のE・ガントレットが英語とラテン語を教えるために岡山の第六高等学校へ赴任していたことから一緒に岡山へきており、関西学院へ転校するまでの1年足らずの期間、養忠学校へ通っていました。当時の坪田譲治も、同学年の山田耕筰を知っていました。
 山田耕筰は回想録(ここでは『はるかなり青春の調べ』長島書房、1957(昭和32)年を展示)の中で養忠学校時代のことにも触れていますが、気風の荒かった生徒どうしの諍いなどに紙数を費やしており、学校そのものに関する記述は坪田譲治と同様にやや素っ気ない感じです。しかし金川高等学校の八十周年記念誌『臥龍』のために書いた寄稿文では、彼も坪田譲治と同様に、より穏やかな言葉で当時を回想しています。

 譲治が学校の教室での勉学について多くを記さなかった理由については、もとよりいろいろな理解が可能です。文学者としての自己形成を重視したとみるのもそのひとつですし、中学の担任の羽原先生による厳しい英語の授業には辟易したようです(ただし、その羽原先生が後年には優しい先生になったときいて驚いたことを書き添えてもいます(『臥龍』92頁))。
 譲治が中学で学んだ教師たちの著作は、いずれも漢文学の素養に基づく格調高い文章で綴られています。養忠学校~金川中学の設立が池田侯爵家や日置家の援助によることから、ここへ集った教師たちには池田家の資料整理と家史編纂に携わった人が多く、彼らはのちに多数の著作や市史等の編纂で岡山地方の歴史記述の基本的枠組みを築く業績を残しました。文学という、いわばイマジネーションを広げていく世界への志向を育てた譲治の資質は、ひとつひとつの史実を揺るがせにしない謹厳な学問を重んじていた彼ら歴史家たちとは、いささかかみ合わない面があったのかも知れません。
 もちろん、譲治は彼らを「立派な」先生たちと呼び、敬愛の念を抱き続けましたが、その先生たちが帰りの汽車へ乗り遅れまいと急ぐ様子を「徒歩競争」と記して、ユーモラスに描いてもいます(『臥龍』92頁)。

(展示品)
〇岡山県立金川高等学校八十周年記念誌『臥龍』(1963(昭和38)年)
〇上記で紹介した人々の著書

山田貞芳が校訂した『備前軍記』の画像
山田貞芳が校訂した『備前軍記』(「吉備叢書」第5、6巻、1898(明治31)年) 原著者は土肥経平で、1774(安永3)年の著作

4 坪田譲治と漢文学

 譲治の父は漢文をよく学んでいましたので(「書の思出」、新潮社版『坪田譲治全集』第12巻では251~254頁)、その影響もあるのかも知れませんが、譲治の家には小型版の「唐詩選」があって、彼が中学時代からそれを読んでいたことを述べています(「読書の思い出」、新潮社版『坪田譲治全集』第12巻237頁)。彼は漢詩文への理解が深く、作品の中でしばしば李白や王維や杜甫の詩や、三国志や論語などの中国の古典から引かれた句を効果的に用いているほか、それら言葉を折々に色紙や軸などにも揮毫しています。譲治が書き残したそれらをみると、彼は詩の意味をよく理解し、かみくだいて易しい表現に改めており、それを素朴な筆致で文字に書き出しています。
 譲治が養忠学校~金川中学の5年間に漢文学と国文学を学んだのは、優れた漢文学者で歴史家でもあった山田貞芳でした。山田は金川中学で西洋史を教えた沼田頼輔らとともに、その頃までには重要な古典の写本の校訂を行ったり、岡山の歴史の研究に取り組んだりしていました。
 山田貞芳は蔵書家としても知られていましたが、歿後、たくさんの旧蔵書は、彼の私塾で学んだことのある公森太郎(大蔵官僚から朝鮮銀行副総裁等を経て中国銀行頭取)や蔵知矩らの尽力で、1917(大正6)年に設置認可されて翌々年に開館した岡山市立図書館(当時の名称は岡山市立岡山図書館)へ1928(昭和3)年に寄贈され、特設の「山田文庫」として大切に保管されていました。それらの多くは昭和20年6月29日の岡山空襲で罹災しましたが、江戸時代の写本を中心に一部が空襲直前に疎開されており、現在までに岡山市立中央図書館で88冊の残存が確認されています。このことを昨年の6~8月に展示紹介していますので、詳しくは本節末のリンク先をご覧下さい。

(展示品)
〇坪田譲治書 軸「浮雲遊子意 落日故人情」(坪田正男氏寄贈)(李白の詩『送友人』「青山横北郭 白水遶東城 此地一為別 孤蓬万里征 浮雲遊子意 落日故人情 揮手自茲去 蕭蕭班馬鳴」によっています)
〇坪田譲治書 軸「老馬も千里の夢」(坪田理基男氏寄贈)(『三国志』から、曹操の言葉「老驥櫪に伏すも志千里に在り」によっています)〇坪田譲治 色紙「送別」(昭和二年十月東京狐塚に於て)(坪田正男氏寄贈)(王維の詩『送別』「下馬飲君酒 問君何所之 君言不得意 帰臥南山陲 但去莫復問 白雲無尽時」です)
〇坪田譲治書 色紙「友はいづくに在りやと問うこと勿れ 唯山中の静寂に耳を傾けよ」昭和二十三年秋(坪田正男氏寄贈)
〇坪田譲治書 色紙「先師に遺訓有り 道を憂へて貧きを憂へず」(森田平三郎氏寄贈)(『論語』の「君子憂道不憂貧」によっています)

展示の情景の画像
展示の情景(第3ケース) 坪田譲治の色紙や軸、金川中学時代の教師の著作を展示しています

簡野道明『唐詩選詳説』(上・下)(明治書院、1929(昭和4)年初版、当館坪田文庫(坪田譲治旧蔵書)のこの本は1937(昭和12)年の第13版)の画像
簡野道明『唐詩選詳説』(上・下)(明治書院、1929(昭和4)年初版、当館坪田文庫(坪田譲治旧蔵書)のこの本は1937(昭和12)年の第13版)

 この展示は、昨夏の展示「戦災前に疎開できた岡山市立図書館の蔵書・再現」で歴史家・漢学者の山田貞芳を取り上げたのを契機に、養忠学校~金川中学に在学した坪田譲治へ焦点を広げたものでしたが、下記の先行研究があり、深く参考とさせていただきました。

〇善太と三平の会『坪田譲治の世界』(岡山文庫150)日本文教出版、1991(平成3)年
〇山根知子「坪田譲治 作品の舞台 ―島田―」『ノートルダム清心女子大学紀要』第27巻第1号(通巻38号)、2003(平成15)年、日本語・日本文学編45~57頁
〇山根知子「坪田譲治の金川中学校時代 ―金川中学校関係資料を中心に―」『ノートルダム清心女子大学紀要』第37巻第1号(通巻48号)、2013(平成25)年、日本語・日本文学編12~27頁

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