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(6~8月)「岡山市立図書館設立100周年記念 戦災前に疎開できた岡山市立図書館の蔵書・再現」

 岡山市立図書館は今年設立100周年を迎えますが、昭和20年6月29日の岡山空襲では建物とほとんどの蔵書を失い、苦難の中で再建を進めてきました。
 その中で、約300冊の蔵書が空襲前に疎開できたと伝えられてきましたが、このたびは現在の160万冊余りの蔵書からそれらを蔵書印や古い目録を手掛かりに探し、復元を試みました。危急の際に最初に持ち出されたのは、おそらく当時最も大切だと考えられた蔵書です。今回は、これまでに判明した図書をすべて展示しています。

1 岡山市立図書館の設立から戦災まで

 

(1)戦前の岡山市立図書館

山本唯三郎(中国民報 大正5年5月9日付記事から)の画像
山本唯三郎(中国民報 大正5年5月9日付記事から)

 岡山市立図書館は、実業家の山本唯三郎が建設のための寄付を申し出て、大正5年10月に岡山県から認可を受け、翌々年に「岡山市立岡山図書館」の名称で開館しました。したがって本年(平成28年)は大正5年の設立認可から100周年に当たります。
 戦前の市立図書館は小橋町(現在の中区小橋町一丁目)にあり、当時は珍しかった鉄筋コンクリート3階建ての堂々たる建物でした。
 以後、市立図書館は、歴史家・漢学者で三門学園(現在の成徳学園の前身)の園長などを勤めた山田貞芳や、岡山県医学専門学校(現在の岡山大学医学部)の外科学教授を勤めた高橋金一郎の旧蔵書等、郷土に関する貴重図書を多数収蔵する一方、市民に幅広く利用される文学書、教養書、実用書や、青少年向きの書物の充実にもつとめてきました。
 しかし、昭和20年6月29日未明の岡山空襲で市立図書館も罹災し、建物とともに蔵書のほとんどが焼失しました。

*山本唯三郎(やまもと たださぶろう):1873~1927年。現在の岡山市北区建部町出身の実業家。苦学して閑谷黌、同志社、札幌農学校で学び、新渡戸稲造の知遇を得て北海道の開拓につとめ、そののち天津の松昌洋行に入社。やがて支配人および店主となって会社の経営にあたり、中国大陸で石炭などの貿易や海運を手掛け、第一次世界大戦にともなう好景気で巨富を得ました。岡山市立図書館のほか、郷里に山本農学校、山本実家女学校を寄付。中国の経済を分析した『支那の将来』(1912年、実業之日本社)などの著書を残しています。


(2)昭和20年6月29日の岡山空襲と図書の疎開

小橋町にあった戦前の市立図書館の画像
小橋町にあった戦前の市立図書館

 戦災のときの図書館の様子は、図書館再建を担った吉岡三平館長のもとで戦後に司書に採用され、行動をともにした黒崎義博・元岡山市立中央図書館長が、著書(『岡山の図書館 ―岡山文化と図書館―』日本文教出版、1991年、80~81頁)の中で記しています(原文は縦書きのため、漢数字をアラビア数字に変えています)。

「20年3月吉岡主任司書は館長となりますが、まずしなければならないのは図書館を護る事でした。空襲の範囲は日本全土に及び、岡山もいつ襲われるか分からない状態の中で図書の疎開を急ぎますが、開館しながらの準備ですから館長と使丁2人でする荷造りははかどりません。しかも疎開先沢田の恩徳寺迄運ぶのにトラックや馬車を頼んでも酒か米(どちらも配給品)を出さないと行ってくれないので、結局リヤカー文庫の三輪車を使って一箱ずつ運ぶことになりましたが、僅か300冊程運んだだけで2日目に使丁が腰を痛め休み出したその日の事、運命の悪魔は思いがけず早く訪れたのでした。」


(3)図書の復元と判明した内訳

 しかし、こうして戦災を免れたと伝えられる約300冊は、戦後の図書館再建で新たに蔵書収集が進められる中、図書分類記号による配架に基づき、他の図書と一緒に扱われてきました。そこで、このたびそれらを確認するには、戦前の古い図書目録等を参照しながら、書物のひとつひとつを手に取って蔵書印を調べる作業が必要でした。
 さまざまな蔵書印の特徴や区別も、調べるうちにわかってきます。現在は160万冊余に及ぶ市立図書館の蔵書から疎開で助かった書物を復元する試みは、はじめは手探りでした。
そしてこれまでに判明した図書の内訳は、以下のとおりです(平成28年7月15日現在。最初の発表から多少変動があります)。

(1)皇室関係    23冊
(2)旧山田文庫   86冊
(3)高橋文庫    77冊(和書29冊、洋書48冊)
(4)その他      16冊(近世12冊、近代4冊)
 合計        202冊

 このうち、時局を反映した(1)の23冊と、(3)の中の洋書48冊と、(4)の近代の図書4冊を除けば、多くは郷土に関する近世の手写本です。
 戦前の市立図書館は、文学書をはじめとして幅広い内容の書物を集めていましたが、最初の疎開の対象には同一物が他にも存在する可能性がある印刷された図書よりも、それひとつきりしかない手写本が多く選ばれていました。
 昭和20年3月の東京大空襲のあと、各地の都市が連日のように空襲を受けて焦土と化していました。岡山も決して例外ではないと誰もが感じていたとき、真っ先に安全な場所へ運び出されたのは、おそらく当時の図書館が最も大切なものと考え、失ってはならないと思っていた書物であろうと推測されます。

*岡山市立中央図書館には、谷口源蔵編『山田文庫図書目録』(1928年、市立岡山図書館)、および岡山図書館編『大正11年6月30日 岡山図書館高橋文庫図書目録』(1922年、岡山図書館)など、若干の戦前の図書目録が保存されていますが、岡山市史編纂委員会の岡長平および小林久磨雄両委員の旧蔵書など、多くの人から戦後寄贈されたものです。

2 戦災前に疎開できた図書

(1)皇室関係の書物

 最初で最後となった疎開の図書には、皇族や皇室に関わる豪華な装丁の書物が23冊選ばれています。歴代皇族の肖像写真集と伝記(渡辺亨『大日本御歴代皇紀』、岡山新聞社編『皇室皇族聖鑑』、水島荘介『仰ぎまつる明治天皇の御聖徳』)、京都御所で行われた昭和天皇の即位の大礼の記録(『昭和大礼京都府記録』上、下)、有栖川宮など多数の親王の行実録(高松宮編『有栖川宮総記』など8冊)と、いずれも当時の社会の雰囲気を推し量れば、最初に持ち出されたことが肯われます。その多くは表紙に「特別閲覧」の小さなシールがあり、戦前の図書館における取扱いの状態も知られます。
 しかし昭和天皇が東宮のときに行われた岡山行啓の記録集(『皇太子殿下岡山県行啓誌』)と、昭和3年の即位大礼を記念して岡山県下で繰り広げられた祝賀行事の記録集(『御大礼奉祝 岡山県記念写真帖』)には、郷土のできごとに関する文献という側面もあります。
 また、さきにも触れた『皇室皇族聖鑑』(明治篇、大正篇、昭和篇の3冊)は、地元の岡山新聞社の発行書です。
 そして以下の書物は、皇室にかかわる文化的な遺産の解説・紹介書です。
 本間晴編『歴代天皇御宸翰』(2版1929年刊)および『(同)読解』は、名筆として知られる歴代天皇の書の図録です。
 上野竹次郎『鳳闕』は、皇居の建物や施設の紹介書です。
 上野竹次郎編『山陵』(上、下、巡陵紀程)は、皇室の陵墓の解説書です。
 史蹟名勝天然記念物刊行会編『史蹟名勝天然記念物』前篇(1921年刊)は、皇室図書の範疇ではありませんが、冒頭から皇室関係を中心にして全国の史蹟等が配列されています。

皇室関係の書物の画像
皇室関係の書物の一部

(2)旧山田文庫

 山田貞芳(1869~1920年)は、備中国にあった岡山藩の支藩、生坂藩の重臣の内山家に生まれ、岡山藩士の山田家へ養子に入りました(内山家と山田家は養子の交換を繰り返してきた、親密な間柄でした)。犬養毅も教えを受けた漢学者、犬飼松窓(1816~1893年)の三余塾で学び、岡山藩の侍医で歴史家の木畑道夫(1824~1904年)らの引き立てで池田家史編纂掛となり、郷土史への造詣を深めました。やがて養忠学校(やがて旧制の金川中学校に。現在の県立金川高等学校)で国文学と漢文学を教え、明治36(1903)年からは備作恵済会感化院(これもやがて三門学園に。現在の成徳学園)の院長(園長)となり、園生の教育に尽しました。
 山田は漢文学、国文学、郷土史に造詣が深く、『備前軍記』『吉備国史』『備中略史』などの郷土の古典の写本を研究して歴史家の沼田頼輔(1869~1934年)とともに校訂・出版を行い、蔵書家としても知られていました。そして岡山市からは、明治44年から編集が始まり、大正4年に刊行された第一期の岡山市史の編纂委員長を委嘱されました。
 山田の没後、彼の蔵書の多くは三門学園で保管されましたが、同園が昭和3年4月から県営に移管された際、書物がより広く利用されるようにと、少年の頃に山田貞芳の私塾で学んだことのある公森太郎(大蔵官僚で、のちに銀行家)が中心となり、木畑竹三郎(木畑道夫の次男)、蔵知矩(岡山市史編纂に携わった郷土史家)、岡村正義(内山下高等小学校長を長く勤め、そののち山田貞芳の後任の三門学園長)の計らいで、3540冊の書物が市立図書館へ寄贈されました。
 公森太郎(1882~1953年)は、はじめは税務官として経歴を開始し、やがて大蔵省でも中国大陸の事情に最も通じた官僚として名を知られるようになり、山東半島の返還に付随する数々の交渉をまとめあげました。公森は、阪谷芳郎(1863~1941年。漢学者の阪谷朗蘆(1822~1881年)の四男として現在の井原市に生まれ、大蔵省次官として日露戦争のときの国家財政を切り回し、大蔵大臣や東京市長を歴任した)からも厚い信頼を得ていたといわれます。やがて公森は銀行家に転身し、日本興業銀行理事や朝鮮銀行副総裁などを勤めたのち、倉敷の大原家から請われて中国銀行の頭取に就任しました。
 岡山市立図書館の旧山田文庫の書物には、「山田文庫」に加えて「公森太郎氏寄附」と大書した朱印が捺されています。実は、旧山田文庫の書物は公森が山田の遺族から私財を投じて買い取り、寄附したものでした。公森は少年のときの恩師、山田を終生にわたり敬愛し続けたということです。
 戦前の市立図書館では、旧山田文庫に含まれている岡山藩政期の多数の手写本を特設文庫とし、格別の保管を行っていました。

*山田貞芳については『山田貞芳集』吉備文庫 第7輯(初版1932年、山陽新報社。再版1980年、山陽新聞社)があり、同書425~436頁の蔵知矩「亡友山田貞芳君」に詳しい伝記があります。山田が校訂に参加した古典のうち『吉備国史』と『備中略史』は、『新編吉備叢書』第1巻(1976年、歴史図書社復刊)に収録されています。
*公森太郎の寄附については、蔵知矩「亡友山田貞芳君」434~435頁に「君は仲々蔵書家で其蒐集の範囲も頗る広かつた。君は貨殖の道にはさほど心を費やさなんだので、其死後子弟教養の資に充つるために親族、故旧相議して之を売却せんとした所が、此のことを聞いて門下生たりし公森太郎氏は、其散逸せんことを遺憾とし、巨額の私財を投じて其全部を引受け、後更に之を岡山図書館に提供し「山田文庫」と称して永久に保存せらるることとなつた。氏が旧師に対する情誼と公共的精神の発露に対しては深く敬意を表する。」と記されています。
*このほか、このウェブページの全体にわたり、人物の伝記については以下の2書を参考にしました。
  吉岡三平監修『岡山人名事典』(1978年、日本文教出版)
  岡山県歴史人物事典編纂委員会編『岡山県歴史人物事典』(1994年、山陽新聞社)

浦上春琴著『続論画詩』にみられる旧山田文庫の蔵書印の画像
浦上春琴著『続論画詩』にみられる旧山田文庫の蔵書印

(3)旧山田文庫の書物

 旧山田文庫の特徴を一言で言い表すのは難しいですが、岡山藩で文教方面に携わる人を多数輩出してきた家系に育った山田貞芳は、ひたすら近代化を目指して進んだ明治という時代の流れの中で、漢学の素養を受け継ぎ、藩政期の岡山の歴史の探求に意欲を注ぎました。したがって、その蔵書は、岡山藩政期の文化遺産を後世に引き継ぐ役割を果たしました。
 それらを大きく分けるなら、まずあげられるのは岡山藩の政治制度や社会に関する資料です。岡山藩の藩主や重臣の系譜、伝記(『池田系図』、『池田主水』、『伊木家譜』、『丹羽平太夫長延系譜』、『渡辺数馬家中分限帳』)、さまざまな種類・時期の藩士の名簿(貞享、嘉永、および文久年間の『士帳』(さむらいちょう)や『播士綏章録』)、そして池田光政の先例に沿って整備されていった岡山藩の法制度等については、『遺訓記』、『備藩典刑』(天、地)、『光政公御法令』、『光政公諸御書出之写』と、近代にまとめられた『旧岡山藩学制』(原題なし)があります
 藩の統治にもかかわりながら近世に作成された地理書・地誌書の一環としては、『備前国村名』と『御野郡北方村名歳帖』をあげることができます。渡辺一炳編『御津郡誌』も、近世の地誌を継承して近代にまとめられた著作です。また、生駒正直『備藩邸考』(上、下、付録)は、岡山藩の江戸藩邸の変遷について記したもので、原著(文政元年)の翌年(文政2年)に作成された写本です。そして『備藩外史別録』は、岡山藩の家老たちに関する記録を集めたものです。以上は岡山藩政に直接にかかわる歴史記録といえるものです。
 また、歴史上のさまざまな事件や出来事の聞き書きや記録としては、羽柴秀吉による備中高松城の水攻めに参加したという老武士からの聞き書き(村瀬安兵衛『備前国住人佐柿常円入道物語』)、赤穂浪士に関する伝え(神崎則休『赤城盟伝』)、大和国で攘夷派の志士たちが代官所を焼き討ちした事件を岡山藩士が伝え聞いてまとめたもの(『天誅組大和騒動記』)があり、『備前軍記』の作者の土肥経平による『備前渡辺数馬仇撃記』は、岡山藩を舞台とする有名な仇討事件の研究・考察書です。そして『外国船渡来後諸藩建白并(ならびに)桜田変事』は、異国船の到来から桜田門の変に至る時期に集められたさまざまな情報をまとめたものです。
 このほか、武士のための教訓書というべきものに、河合章尭編・小原大丈軒筆写『武将伝記』、『忠節後鑑録或説』(上、下)、および小原大丈軒『清美問答』(天、地)があります。そして武芸や文芸に関する教養の書といえるものに、小原正直『鐙鞍名所図』、源政倫『八代集秀歌』、浦上春琴『続論画詩』があるほか、小原大丈軒抜書『小笠原貞宗目安』(一、二)は、小笠原流の礼法書から馬術に関わる部分を多く抜粋したものです。
 さらに医術や用薬に関する小原大丈軒『大丈軒用薬論』、および平田篤胤『志都之石室』(上下)があります。

旧山田文庫『嘉永三庚戌年 士帳』の画像
旧山田文庫『嘉永三庚戌年 士帳』

 このほか、文学の面では、学問に携わった岡山藩士たちの漢詩集が多く含まれています。なかでも池田光政・綱政の2君に仕え、岡山藩校の学監などをつとめて文教事業に足跡を残した儒学者・漢学者、小原正義(号:大丈軒)と松井良直(号:可楽)の2名の詩文集が、旧山田文庫では多く伝えられてきました。

 小原大丈軒(1637~1712年)は、美濃国(現岐阜県)に生まれた漢学者・儒学者で、唐津と京都などで漢詩文や朱子学を学び、岡山に来て池田光政・綱政父子に仕えました。若年の時は朝倉姓を称しました。
 旧山田文庫には彼の著作が多く含まれています。単独の著述としては、儒学に関する著述(『論語大全弁疑録』)2冊と、さきにもあげた教訓書(『清美問答』2冊)と薬学の書(『大丈軒用薬論』1冊)、そして日誌(『善介日記』1冊)、および『牛窓詩藻』を含む23冊の漢詩文集です。
 『善介日記』は、光政・綱政の2君に仕えた大丈軒(通称:善介)の記録であり、藩主に学問を講義した侍講や、藩主の上洛等にともなって随行した記録などが、日付の順に簡潔に記されています。藩主に近侍して藩の学問政策を補佐した大丈軒の業務日誌として、興味深いものです。
 大丈軒の漢詩文集には身近な花や樹木、自然を詠んだ抒情詩が多く含まれていますが、熊沢蕃山の実弟の陽明学者、泉仲愛(1623~1702年)への哀悼詩など、岡山藩の学者・文人たちとの交友のありさまがうかがわれるものもあります。また、詩文集の中の6冊は詩稿集であり、添削や推敲の跡が重ねられています。
 以上にみるとおり、大丈軒の著作は、彼の単独の作品だけで合計29冊となり、現存する旧山田文庫の書物の3分の1近くを占めています。

旧山田文庫 小原大丈軒著『善介日記』の画像
旧山田文庫 小原大丈軒著『善介日記』

 いっぽう、松井可楽(1643~1728年)は、大和国(一説に山城国)に生まれた漢学者・儒学者で、はじめは池田光政の弟の恒元(播磨国の宍栗藩主)に仕えますが、それを機に岡山藩主の光政の知遇を得て、光政、綱政父子に仕え、大丈軒らとともに岡山藩の文教に大きな役割を果たしました。
 可楽の詩集では、『百句長律抄』1冊、『六友詩』3冊、および朝鮮通信使にかかわる『牛転唱和詩』1冊があり、このほか『探題詩』、『玉屑刈楚』、『北方八景』、『五十首題詠』が1冊にまとめられています。
 また、『大倭原始論』は、日本の文化が固有のものであることを説いた書物で、のちに発展してくる国学(日本に独自の文化を研究しようとする学問)に先んじています。

 大丈軒も可楽も、池田光政のとき城下に整備された藩校(現在の北区蕃山町)の教官として藩士へ儒学を講じるとともに、岡山藩による朝鮮通信使の迎接に際して、筆談による通訳にあたりました。
 朝鮮通信使は、江戸時代に将軍の代替わりのたびに朝鮮国王から派遣された使節で、江戸への参府の往復の途次、各地の人々と交流し、交歓を行ったことが広く知られてきています。
通信使の大船団が瀬戸内海を航行するとき、岡山藩の領海では牛窓港が一行のための停泊所として整備されており、受け持ちの役目として、藩をあげて迎接にあたりました。その際は漢文の筆談で意志を通じることができる儒学者や漢学者が衝に当たり、港町の風光を愛でて、通信使の一行と詩文を交わしながら友情を深めることも行われました。
 たとえば、光政に招かれて岡山藩に仕えた儒官・漢学者の富田元真(1624~1687年)が稿をまとめた『牛窓詩』では、天和2(1682)年の迎接に当たった彼と、通信使一行が詠み交わした漢詩文が、交互に書き記されています。
 小原大丈軒と松井可楽は、天和2(1682)年と正徳元(1711)年の朝鮮通信使の来訪に際して迎接を受け持ちました。大丈軒の『牛窓詩藻』と可楽の『牛転唱和詩』は、風光明媚な牛窓で繰り広げられた歓待の様子を伝える詩文集です。
 なお、可楽の『大倭原始論』には「朝鮮地理」の記載も含まれており、その背景には通信使迎接の体験があるのかも知れません。これらの作品は東アジアを舞台に繰り広げられた両国の交流の証しであり、地域に根差した交歓のさまを伝える記録です。
 そして旧山田文庫には、小原大丈軒自身の著述のほかにも、彼に関係する多数の書物が含まれています。『松井可楽丈座右案』は可楽と大丈軒の共著ともいうべきもので、漢詩文による往復の書簡集を可楽がまとめていますし、大丈軒の詩は『奉悼備前』(光政の死去を悼んで多くの人が寄せた哀悼詩集)にも収録されています。河合章尭編『武将伝記』の写本は大丈軒が筆写したものであり、『小笠原貞宗目安』2冊は、小笠原流の礼法の秘伝書から馬術に関する部分を大丈軒が抜粋したものです。そして、『池田系図』と名付けられている原題のない池田家の家譜には、表紙の裏に「小原大義書蔵」の書付があり、小原大(丈軒正)義の書写と所蔵をうかがわせます。また、『備藩外史別録』と『伊木家譜』には表紙裏に「小原氏所蔵之印」とある角印が捺されており、大丈軒かその一族の人との関連が考えられます。
 このようにみると、戦災を免れた旧山田文庫の書物の4割強が、何らかの仕方で小原大丈軒にゆかりをもっています。このことは、旧山田文庫の書物の伝来について、何か手がかりを示しているのかも知れません。実は、山田貞芳が多くの貴重書をどのようにして収集したか、そしてその中には彼の家に伝わってきた書物も含まれていたのかどうか、現段階では確たる見通しがなく、今後の課題というほかありませんが、このたび旧山田文庫の現存図書をほぼ確定させることができたので、それらを掘り下げて行くことができるようになりました。

 なお、大丈軒と可楽の書物のほかにも、漢詩集としては仁科白谷編『嵐山風雅集』(上下)、三浦矩次『閑音問答』(上下)、『烏城名家詩歌集』があります。白谷などの多くの近世の文学者、著述家については、山田貞芳自身がみずからの論考の中で触れ、解説していますので(『山田貞芳集』(「吉備文庫」第3輯)、彼の歴史研究の道程の中に、これらの旧蔵書を位置づける研究も、必要になってくるものと思われます。
 その中でも、小原大丈軒と松井可楽の著作や関係書は、池田光政・綱政父子が藩主をつとめた近世前期の時代・・城下の藩学(藩校)を拠点に学問が奨励されて、新田開発が進められ、後楽園や閑谷学校が建設された・・の、絢爛たる文化につながる資料です。岡山藩が豊かに栄えたこの時代については、こんにちまで多数の歴史遺産が大切に保存されてきています。2人の著書は、その頃の岡山で開花した学問の世界の雰囲気というものを実感させる、貴重な資料であるといえましょう。

旧山田文庫 小原大丈軒著『牛窓詩藻』の冒頭(正徳元年の朝鮮通信使の迎接に際して詠まれた漢詩文集)の画像
旧山田文庫 小原大丈軒著『牛窓詩藻』の冒頭(正徳元年の朝鮮通信使の迎接に際して詠まれた漢詩文集)

 このほか旧山田文庫には、紀行文等も含まれています。
 『金山詣』は、城下町の東郊、少林寺の付近で庵を結ぶ世捨て人の了頓が、同じ境涯の軽志の案内で岡山市中を巡り歩き、名所旧跡や城下の町々の様子を紹介しながら筆を進めて、町の北郊の金山へ詣でるまでの小さな旅の紀行文です。市中の繁華を巧みに描写したこの書物は、江戸時代の岡山の町の風景と、そこに暮らしていた人々の姿を彷彿とさせる文学です。
 『児島道草』は、俳諧師たちが児島半島を巡り、浦々の風光を愛でて叙述したものです。
 岡西惟中が著した『白水郎(あま)の子のすさび』も、瀬戸内海沿岸をめぐった船旅の記録です。
 『岡山名所図会稿本』には原題がなく、書物の内容から付せられた名前ですが、幕末とみられる頃の岡山城下町の景観を描いた多数の木版画を含む書物(稿本)でした。近世の市街地の姿をビジュアルに伝えてきた貴重な記録でしたが、戦災を免れたものの、昭和40年代に原本の行方がわからなくなり、現在も所在不明です(昭和48年10月14日付け『山陽新聞』岡山・倉敷圏版4面記事「郷土資料盗まれる 岡山市立図書館 幕末の城下町風景」)。ただし昭和38年に吉岡三平らにより復刻本が作られていたため、その図様を知ることはできます。この書物は本展示でも復刻本を出品しています。

 今回の確認作業でまだ貴重な図書がたくさん戦災を免れて残っていたことがわかりましたが、『備前軍記』などの史書の写本や漢詩文集、そして近代以降の図書など、戦災で失われた書物は多数にのぼります。

旧山田文庫『岡山名所図会稿本』の復刻本から「西大寺町の辻」の画像
旧山田文庫『岡山名所図会稿本』の復刻本から「西大寺町の辻」

(4)高橋文庫

 戦前には20974冊あった高橋文庫については、収集者の高橋金一郎(1866~1919年)は群馬県出身の医学者・外科医で、東京帝国大学医学部を卒業後、第三高等中学校医学部~岡山医学専門学校(現在の岡山大学医学部)の外科学教授を長年にわたって勤め、最晩年に岡山市内の内山下に医院を開業しました。みずから文法書の著述に取り組むほどドイツ語には堪能であったことが知られており、旧高橋文庫に含まれている多種多様な書物をみていくと、高橋が専門の医学のみならず、語学、地誌、地理、歴史、民俗など、人間とその社会や環境をめぐるさまざまな事象に幅広い好奇心をもち、博物学的な関心から多数の書物が集められたことがうかがわれます。
 戦災を免れた高橋文庫の書物のうち、外国語図書は旧来の高橋文庫で呼ばれ、一括で扱われてきましたが、和書は他の図書と混合配架されてきましたので、今回の確認の対象となりました。
 高橋文庫の外国語図書を仮に(1)医学書、(2)語学関係の書物、(3)歴史、地理、紀行、民俗など、その他の多様な分野にわたる書物、と大きく分けてみます。

 このうち、比較的多くの人の関心を引きそうなのは、地誌や紀行に関する書物かもしれません。その中で最も古い文献は、オランダ人宣教師、アルノルドゥス・モンタヌスが著した『日本誌』(1669年)です。すでに日本が鎖国政策を始めており、キリスト教宣教師の入国を禁じていたため、モンタヌスは日本の土を直接踏んでいませんが、さまざまな文献等を通して情報を集め、それらを総合して日本の国情や文化に関する大著にまとめあげています。多数の銅版画の挿絵も含まれており、ビジュアルな解説になっています。
 このほかにも、外国人が記した日本に関する書物は多く、ドイツ人医師ケンペルが記した江戸参府紀行の仏訳版(1732年)と、『ペリー提督日本遠征記』(1857年)の原本があります。また、島原の乱や、日露戦争に至る両国関係について記した書物もあります。
 ナポレオン1世の在世中に出版された『ナポレオン法典』(1808年)は、神聖ローマ帝国を解体してフランスがドイツ西部に作り上げられたウェストファリア王国で流通した版で、そのためドイツ語とフランス語の対訳式になっています。
 このほか、都市アムステルダムの形成史を述べた書物や、世界一周旅行に関する書物、世界各地の民俗や、動植物の百科全書のような書物が含まれています。
 専門の医学の分野でも、バルトロメウス・エウスタキウスの『外科解剖学』(1722年)や、ラウレンティウスの『外科学』(1724年)など、ラテン語や亀の子文字(ひげ文字)のドイツ語などがならぶ、古い時期に刊行された希少な書物が含まれています。
 語学関係では、最も多いのはドイツ語とオランダ語の辞書や文法書ですが、フランス語、英語、ラテン語、中国語に関する書物もあります。

 これらの外国語図書を、高橋はどのように集めたのでしょうか。高橋文庫の書物には、図書館や教育機関などの別の所蔵者による古い蔵書印が捺されているものがあります。そうしていくつかの所蔵先を経て集められたものがあることや、高橋自身が書物を海外でまとめて収集したことも特に知られていないので、現段階では、彼はおそらく日本にいて、さまざまな方法を通して本を収集したものかと推測しています。
 高橋に限らず明治という時代には多くの人が外国語の図書の収集に意欲を燃やし、西欧の学問を根本から学び取ろうと情熱を注いだようです。私たちが想像するよりも、はるかに西欧の図書の収集が熱心に行われていたことが、書物のさまざまな蔵書印から伝わってきます。

*高橋文庫の寄附の経緯については、前掲の『岡山図書館高橋文庫図書目録』1頁に、「故岡山医学専門学校教授高橋金一郎氏広ク内外ノ図書ヲ蒐集セラレ其ノ冊数数万ノ多キニ上レり未亡人梅子刀自故人カ畢生ノ心血ヲ灑キタル書冊ノ或ハ散佚センコトヲ恐レ其ノ縁故深キ岡山ノ地ニ於テ之ヲ整理公開センコトヲ欲シ大正八年八月時ノ館長事務取扱貞松修蔵氏ヲ経テ中山市長及岡田前市長等ニ謀リ有志諸彦ノ賛助ヲ得テ本文庫設置ヲ劃シ同年十二月市会ノ議決ヲ経テ茲ニ岡山図書館内ニ高橋文庫ヲ設置スルニ至レり爾来日夜図書ノ整理ニ努メ大正十五年五月十日公開式ヲ挙行シ公衆ノ閲覧ニ供ス」とあります。

高橋文庫 D・ラウレンティウス著『外科学』(1724年)の扉ページの画像
高橋文庫 D・ラウレンティウス著『外科学』(1724年)の扉ページ

 いっぽう、旧高橋文庫にも多数の和書が含まれていましたが、それらについては地誌や地理に関する書物と、名所記や案内記に類するものが多く残されています。
 岡山藩の地誌といえば、『備陽記』が広く知られていますが、それに先駆けて著述されたのが石丸定良の『備前記』(元禄17年、全9巻)です。岡山藩領の各村の産出高や、耕地面積、戸数、人口、沿革・特徴などを簡潔に記載しており、江戸時代を通じてさまざまな種類のものが発刊された地誌書の中で、『備前記』はその先駆けをなすものです。後年の写本では複数巻を合本することが多くなりますが、旧高橋文庫の写本は各巻がそれぞれで綴じられており、それらを岡山城下と8つの郡に割り当てた当初の様態を伝えています。

 さまざまな地域と、そこで営まれる人々の暮らしにまで好奇心を広げた高橋金一郎は、医学者としての専門にとどまらず、書物を通して世界各地の地誌や言語や民俗、歴史に関心を広げ、旅行記や探検記を愛して、博物学的といっていいような興味から、多様な人間存在のあり方を見つめていたのではないかと思えてきます。

旧高橋文庫 石丸定良『備前記』(1704年)の写本(巻1)の冒頭の画像
旧高橋文庫 石丸定良『備前記』(1704年)の写本(巻1)の冒頭

(5)その他の書物

 以上のいずれのグループにも属さない書物が16冊ありましたが、そのほとんどは近世の写本です。
 『池田家大坂陣之記』は、大坂の陣に参戦した姫路藩主、池田利隆(光政の父)の活躍を記した書物で、『うもれ水』の別名でも知られています。
 このほか、『備陽国誌』、土肥経平『備前軍記』、『備藩集義録』、仁科白谷選『三備詩選』など、近世に編纂された岡山地域に関する基本的な文献の写本が含まれています。
 宮瀬睦夫『野口英世の母』と室生犀星『女ノ図』の2冊は、どちらかというと一般に広く読まれる種類の書物で、他の例とは傾向を異にしています。空襲の直前に貸し出されていて帰ってきた書物か、あるいは小さな本なので、とっさのことで隙間へ入れられたのかと、あれこれ推量してみるものの、現時点ではそれらが選ばれた理由がはっきりしません。

 戦前は特別文庫として扱われ、戦災を免れた数少ない書物が、戦後は図書分類記号にしたがって他の書物と一緒に配架されてきた理由は不明です。しかし、ひとつ考えられるのは、図書館で利用者のニーズに沿った配架をめざすなら、たとえば自分の祖先を知りたい人には、山田文庫にも含まれる「士帳」は大切な手掛かりです。求めに応じて書物を迅速に提供するには、旧山田文庫とか高橋文庫とかと区別せず、蔵書がすべてひとつの基準で配架されていると便利です。藩士名簿に関する書物は、戦後に収集された同様の新しい書物と一緒に、近い場所にあるほうが多くのニーズには沿っています。
 しかし、近年はデジタル技術が発達してきたので、実際の配架とは別に、デジタルデータ上で別の配列をさまざまに行えるようになりました。旧山田文庫と高橋文庫については、それらを一体性ある歴史研究の対象と捉えて洞察と理解を深めることが、図書館の資料提供の利便性と矛盾ぜず行えるようになればよいでしょう。そのためにも資料のデジタル化を進め、利用環境の向上をはかることが有効であると考えられます。

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