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(1月~3月)「坪田譲治展 ~第31回坪田譲治文学賞記念 坪田譲治をめぐる挿絵・装丁(そうてい)画家たち

会期 平成28年1月28日(木)~3月6日(日)  毎週月曜日休館
場所 2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 岡山出身の児童文学者、坪田譲治(1890~1982)を記念する坪田譲治文学賞(岡山市主催)が本年も1月26日に発表されましたが、当館では例年これにあわせて坪田譲治の遺族から当館へ寄贈された坪田譲治関係資料(坪田文庫)の特集展示を行っています。
 今回は“文学と美術の協同”という視点から坪田譲治をめぐる挿絵・装丁画家たちに着目し、坪田文庫の資料など当館所蔵の書籍、絵画、屏風、写真パネルを展示しています。
 なお、装丁(そうてい)とは書物を綴(と)じて表紙をつけることをいい、本に表紙や扉絵などを添えて造本の全体をデザインすることを指しています。

坪田譲治をめぐる挿絵・装丁画家たち

 一冊の書物は、読まれる内容(文)の書き手と、表紙や扉絵や文中の挿絵を描いて書物をデザインする挿絵・装丁画家の協同で生まれます。
 坪田譲治の作品には、文と絵が渾然一体の魅力をたたえるものが多数ありますが、それをひも解くには、坪田譲治の文を深く理解し、それにふさわしい装丁や挿絵を施した画家たちの存在にも思いを寄せる必要があります。実際、譲治の作品に携わった芸術家には、画家や版画として、あるいは書物の挿絵や装丁で不朽の名を残した人も多く、そこから譲治の交友の深さがうかがわれますし、挿絵・装丁は坪田文学において不可分の重要な要素をなしています。
 このたびは、坪田譲治の代表作のひとつ、『子供の四季』の挿絵・装丁に携わった小穴隆一をはじめ、坪田譲治とコンビを組んだ数々の画家たちを取り上げ、書物のデザインをめぐる美術家との協同を通して坪田文学の魅力を紹介します。
 なお展示品は、当館所蔵の坪田文庫(譲治の没後、長男の坪田正男氏と三男の坪田理基男氏から当館へ寄贈された一連の資料)の52点に、当館所蔵の他の書籍10点を加えた62点からなっています。
 作家・画家の履歴の記述には、下記の資料等を参考にしました。

  大阪国際児童文学館(編著)『日本児童文学大事典』1993年、大日本図書
  日本近代文学館(編著)『日本近代文学大事典』1984年、講談社
  東京文化財研究所ウェブサイト、デジタルデータベース『日本美術年鑑所載「物故者記事」』

小穴隆一 :坪田譲治の文壇登場を支えた画家

 小穴隆一(おあな・りゅういち 1894~1966)は、長野県塩尻市出身の父の任地、長崎で生まれ、小学生までを函館市で過ごしました。開成中学に進学するものの洋画家を志して中退し、帝展審査員を歴任した洋画家の中村不折(なかむら・ふせつ 1865~1943)に師事して太平洋画会、次いで二科会に出品しましたが、やがて小杉放庵(こすぎ・ほうあん 1881~1994)を慕って放庵と梅原龍三郎(うめはら・りゅうざぶろう 1888~1986)が中心となって結成された春陽会へ移り、ここを舞台に戦後まで活動しました。
 小穴は、とりわけ大正時代の文壇を席巻した芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ 1892~1927)との深い交友で知られています。芥川のほとんどの作品に装丁を行ったのは小穴隆一でしたが、昭和2(1927)年に芥川が自殺した後も、坪田譲治、宮沢賢治、室生犀星、小川未明など、多くの文学者の作品に携わりました。
 坪田譲治については、譲治が長い苦難と窮乏の時期をくぐり抜けて40歳代後半になり、ようやく文壇で名声を確立したときの代表作、『お化けの世界』、『風の中の子供』、『子供の四季』の中の『子供の四季』(昭和13(1938)年)に始まり、以後も『善太と三平』の装丁や、洋画家の中川一政(なかがわ・かずまさ 1893~1991)が装丁した『虎彦龍彦』の挿絵など、多くの作品に携わりました。
 小穴は春陽会に所属して昭和32(1957)年まで出品を続け、その中心メンバーとして活躍しましたが、当館には彼が描いた坪田譲治の肖像画(油彩)が、譲治の遺族から寄贈されています(坪田文庫)。
 また小穴は、俳句を正岡子規の高弟の河東碧悟桐(かわひがし・へきごとう 1873~1937)に学び(俳号は一游亭)、俳人・随筆家としても多くの作品を残しました。

展示品

(1)坪田譲治と小穴隆一の協同による作品

『子供の四季』 昭和13(1938)年、新潮社  坪田譲治(著)、小穴隆一(装丁)
  ⇒末尾の添付画像1もご参照ください
『風の又三郎』 昭和14(1939)年、羽田書店  宮沢賢治(著)、坪田譲治(解説)、小穴隆一(画)
  ⇒末尾の添付画像2もご参照ください
『善太と三平』 昭和15(1940)年、童話春秋社  坪田譲治(著)、小穴隆一(装丁)、中谷泰(挿絵)
『七人の子供』 昭和18(1943)年、童話春秋社  坪田譲治(著)、小穴隆一(装丁)、中尾彰(挿絵)
『短編集 一人の子供』 昭和23(1948)年、小峰書店  坪田譲治(著)、小穴隆一(装丁)
『虎彦龍彦』 昭和23(1948)年、桐書房  坪田譲治(著)、中川一政(装丁)、小穴隆一(挿絵)
『春の夢 秋の夢』 昭和24(1949)年、新潮社  坪田譲治(著)、小穴隆一(装丁、挿絵)
『四羽の小鳥』 昭和24(1949)年、新潮社  坪田譲治(著)、小穴隆一(装丁、挿絵)
『子供の四季』 昭和27(1952)年、あかね書房  坪田譲治(著)、小穴隆一(装丁)

 このうちの『虎彦龍彦』を装丁し、表紙絵を描いた中川一政(なかがわ・かずまさ 1893~1991)は、東京出身で独学で絵画を学んだ洋画家です。岸田劉生の目にとまり、彼を通して武者小路実篤など多くの文学者と交わり、尾崎士郎の代表作『人生劇場青春篇』の挿絵を担当するなどしました。春陽会には岸田劉生とともに客員として招かれ、出品を続けましたが、フォービスムの影響を受けた初期の画風から、晩年になるにつれて簡潔で晴朗な画風へと移行しました。昭和50(1975)年には文化勲章を受章しました。

(2)坪田譲治肖像画 『T君』

  小穴隆一(作)、昭和15(1940)年
  縦61cm×横50.5cm、キャンバスに油彩 (坪田文庫)

 昭和16年の春陽会に出品された作品です。
 額の外枠の裏面に展覧会へ出品したときの貼紙があり、”「”と”T”の文字が書かれ、その次から紙の表面がごく薄く剥がれているのですが、深くしみ込んだインクによる”君”の文字の痕跡がかすかに認められます。
 この絵が描かれた頃の譲治は52歳。譲治は岡山県御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)に生まれ、実家はランプ芯の製造工場を経営する裕福な家でしたが、譲治の父の死後、経営をめぐる親族間の紛糾から譲治は会社の権利を失い、以後は東京での極貧暮らしの中、文学ひとつで身を立てることに人生を賭けることになりました。
 こうした辛酸をなめたあと、譲治は40歳代の終わり頃になって、ようやく文壇に名声を確立することになる3作(『お化けの世界』『風の中の子供』『子供の四季』を新聞連載小説として世に出しました。
 小穴隆一が描いたこの肖像画は、譲治の生活にゆとりがあらわれ、まだ戦争が始まる前でもあった、束の間の充実の日々を迎えていた頃のものです。煙草をくゆらす譲治の穏やかな表情は、信頼する画家、小穴隆一との深い友情を証し立てていますし、譲治の好奇心に満ちたまなざしを的確に捉えています。

坪田譲治肖像画 『T君』 小穴隆一作 の画像
坪田譲治肖像画 『T君』 小穴隆一作 昭和15(1940)年 キャンバスに油彩 縦61cm×横50.5cm

坪田譲治を取り巻く多彩な画家たち

 坪田譲治の著書の装丁、口絵、挿絵には、このほかにも多くの美術家が携わっています。当館の所蔵資料によって、その中の幾人かを紹介します。

(1)坪田譲治をめぐる多彩な挿絵・装丁画家たち

『魔法』(復刻本) 昭和10(1935)年、健文社 坪田譲治(著)、深沢省三(装丁)

 深沢省三(ふかざわ・しょうぞう 1899~1992)は岩手県出身の画家で、藤島武二に学び、同郷の画家の四戸(旧姓)紅子と結婚しました。鈴木三重吉が主宰した児童雑誌『赤い鳥』の装丁・挿絵に、中心になった清水良雄と、鈴木淳とともに携わっていたため、深い交友があった鈴木三重吉にまだ無名だった坪田譲治を紹介しました。
 戦後は郷里の盛岡市に住んで岩手大学教授を勤めるなどし、坪田譲治と彼の弟子たちの作品の装丁も行いました。

『坪田譲治 童話 三年生』 昭和15(1940)年、文昭社 坪田譲治(著)、深沢紅子(装丁、口絵、挿絵)

 深沢紅子(ふかざわ・こうこ 1903~1993)は、岩手県出身の画家・童画家。女子美術専門学校(現在の女子美術大学)を卒業し、岡田三郎助に師事しました。夫の深沢省三とともに雑誌『子供之友』の中心的な画家として活躍し、多くの児童文学書に携わりました。

『随筆 家を守る子』 昭和16(1941)年、墨水社 坪田譲治(著)、野間仁根(装丁・口絵・挿絵)
『黒猫の家』 昭和18(1943)年、新潮社 坪田譲治(著)、野間仁根(装丁)、中尾彰(挿絵)

 野間仁根(のま・ひとね 1901~1979)は愛媛県出身の画家で、東京美術学校西洋画科を卒業。はじめ二科会に所属し、戦後に一陽会の結成に参画しました。新聞連載小説として発表された坪田譲治の『風の中の子供』(1936年、竹村書店)の挿絵を担当したほか、佐藤春夫、井伏鱒二らの文学書の挿絵・装丁にも携わりました。

『鶴の恩がへし』 昭和18(1943)年、新潮社 坪田譲治(著)、恩地孝四郎(装丁)、鴨下晃湖(挿絵)
『善太と汽車』 昭和22(1947)年、東亜春秋社 坪田譲治(著)、恩地孝四郎(装丁)、大石哲郎(挿絵)
『児童読物に関する100の質問』 昭和32(1957)年、中央公論社 坪田譲治・国分一太郎(編)、恩地孝四郎(表紙)、渡辺三郎(カバー)
  ⇒末尾の添付画像3もご参照ください

 恩地孝四郎(おんち・こうしろう 1891~1955)は東京出身の版画家。東京美術学校へ入学し洋画・彫刻を学びましたが、在学中から詩と版画の雑誌「月映」を創刊し、版画へ傾倒して行きました。はじめは帝展に出品しますが、やがて版画創作協会(のちの版画協会)を活動の舞台とするようになりました。大正時代初期から版画における創作性について考えをめぐらし、版画の分野で最も早くから抽象表現を追求しました。

『長編小説 山国』 昭和18(1943)年、新潮社 坪田譲治(著)、中尾彰(装丁)
『魔法の庭』 昭和21(1946)年、香柏書房 坪田譲治(著)、中尾彰(装丁)
『長編童話 山の湖』 昭和22(1947)年、桐書房 坪田譲治(著)、中尾彰(装丁、挿絵)
『新しいパンツをはいて』 昭和21(1946)年、国民図書刊行会 坪田譲治(著)、中尾彰(装丁、挿絵)
『がまのげいとう』 昭和25(1950)年重版、海住書房 坪田譲治(著)、中尾彰(装丁・挿絵)

 中尾彰(なかお・しょう 1904~1994年)は、島根県津和野市に生まれ、独学で画を学んだ童画家、詩人です。戦前から独立美術協会で活動し、戦後は日本童画会を結成しました。パステル調の淡い色彩による詩情ある画風が特徴で、坪田譲治とのコンビで多数の作品を残しました。

『ねことままごと』 昭和24(1949)年、アテネ書房 坪田譲治(著)、須田寿(装丁・挿絵)

 須田寿(すだ・ひさし 1906~2005年)は、東京出身の洋画家。はじめ遠縁の日本画家、下村観山に学び、やがて洋画を志して東京美術学校西洋画科で和田英作に学びました。1931年の帝展初入選から官展で活動しますが、1949年に日展を退会して立軌会を創立。以後はキュビズムや洋の東西にわたる古代のモチーフに触発を受けてきました。1965年から1978年まで武蔵野美術大学教授を勤めました。

『家に子供あり』 昭和26(1951)年、泰光堂 坪田譲治(著)、山下大五郎(装丁・挿絵)

 山下大五郎(やました・だいごろう 1908~1990年)は神奈川県藤沢市生まれの画家で、東京美術学校を卒業。林武に学び、官展系の作家として活動しました。

『天狗のかくれみの』 昭和42(1967)年、平凡社 坪田譲治(著)、赤羽末吉(絵)

 赤羽末吉(あかば・すえきち 1910~1990年)は、東京に生まれ、独学で絵画を学んだ画家。童画に大和絵や水墨画などの日本的な要素を取り入れて独自の境地を開拓した人で、『かさじぞう』『ももたろう』『スーホの白いうま』などが代表作とされています。昭和55年に国際アンデルセン賞の画家賞を日本人で初めて受賞しました。

(2)坪田譲治と挿絵・装丁画家たちの交流

写真パネル「NHK「ここに鐘がなる」にて 深沢省三さん、深沢紅子さんと」(昭和37年5月)(坪田文庫)
 昭和37(1962)年にNHKの放送番組として、坪田譲治と画家の深沢省三・深沢紅子夫妻との対談が放映されたときの写真です。

写真パネル「雑司ヶ谷の自宅にて」(昭和27年)(坪田文庫)
屏風(二曲貼交屏風) (坪田文庫)

 屏風は東京都豊島区雑司ヶ谷の坪田譲治の書斎にあったもので、深い交友があった下記の8人の作家や画家たちの作品(色紙、短冊、扇面、装丁画)が貼り交ぜられています。
 この屏風の前でくつろぐ姿の坪田譲治を写した写真パネルを、あわせて展示しています。

 野間仁根(のま・ひとね 1901~1979) 画家(前出)。 
 小田嶽夫(おだ・たけお 1900~1979) 小説家。代表作に『城外』『惜別』など。
 尾崎士郎(おざき・しろう 1898~1964) 小説家。代表作は『人生劇場』。
 室生犀星(むろう・さいせい 1889~1962) 詩人、小説家。詩「ふるさとは遠きにありて思うもの・・」で知られています。
 宮崎白蓮(みやざき・びゃくれん 1885~1967) 歌人。
 小穴隆一(おあな・りゅういち 1894~1966) 画家、装丁画家、俳人、随筆家(前出)。
 井伏鱒二(いぶせますじ 1898~1993) 小説家。代表作に『山椒魚』『黒い雨』など。
 壺井繁治(つぼい・しげじ 1897~1975) プロレタリア文学の詩人。夫人の壺井栄は小説家。

屏風の展示 の画像
屏風の展示

山高 登 :児童文学雑誌『びわの実学校』の表紙画の担当者

 鈴木三重吉(すずき・みえきち 1882~1936)が主宰した童話雑誌『赤い鳥』(1918~1936年、途中休刊あり)は、こどもたちのために芸術性の高い童話や物語を掲載するという方針のもと、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』などの珠玉の名作を生み、坪田譲治も自身がここで作家として育てられたとの思いを強く抱いていました。戦後、恩師の鈴木三重吉が志した『赤い鳥』の精神を引き継ぎ、次世代の児童文学者の育成の場を再び設けることを譲治は深く念願しましたが、昭和38(1963)年に自費で児童文学雑誌『びわの実学校』を創刊し、きびしい編集作業を通じて有望な若手作家を発掘・指導することに情熱を注ぎました。
 この雑誌は昭和49(1974)年の第66号から講談社が刊行を引き受けるようになりましたが、ここから松谷みよ子、庄野英二、与田準一、前川康男、砂田弘、寺村輝夫、あまんきみこ、宮川ひろ、岡野薫子の各氏など、戦後の日本の児童文学を代表する数多くの作家が育ち、編集同人として参加したり、ここへの投稿によって文壇に出る機会を得たりしました。
 昭和57(1982)年に譲治が没した後も、『びわの実学校』は同人の手で発行が継続され、昭和61(1986)年までに134号を数えましたが、すべての号の表紙画を制作したのが東京生まれの編集者・版画家、山高登(やまたか・のぼる 1926~)氏でした。
 山高氏は、新潮社の編集者として多くの雑誌・絵本・児童図書の編集に携わった後、坪田譲治の依頼で『びわの実学校』の表紙画を担当するようになり、以後、23年間にわたる刊行期間中、隔月刊の毎号に木版画の特徴を活かした季節感あふれる表紙デザインを施しました。
 坪田譲治は生涯にわたり多く挿絵・装丁画家たちとコンビを組みましたが、『びわの実学校』では山高氏がすべての号の表紙画を受け持ち、一貫性のあるデザインにまとめています。
 坪田譲治の遺族から当館へ寄贈された『びわの実学校』のバックナンバーから多数の号を展示し、表紙デザインを紹介しています。

 坪田譲治(編集)、山高登(表紙版画) 雑誌『びわの実学校』の展示の画像
 坪田譲治(編集)、山高登(表紙版画) 雑誌『びわの実学校』 の展示

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