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(12月~1月)「村人たちが迎えた明治維新(地租改正の前後)」

会期 平成27年12月18日(金)~平成28年1月24日(日)
   *1月11日(成人の日)を除く毎週月曜日と年末年始(12月28日~1月4日)は休館です
場所 2階視聴覚ホール前 展示コーナー

 旧御津郡芳田村(現在の岡山市北区富田、同南区新保、万倍、西市、米倉、泉田、当新田の各地区に相当し、昭和27年に岡山市へ編入合併)の役場に伝来した文書(当館所蔵)を事例として、村落からみた明治維新による制度改革を、租税体系の変更(貢納から地租へ)を中心に紹介します。

旧芳田村とその文書

 旧芳田村の地域は、岡山平野南部の低平な土地で、笹ヶ瀬川を挟んで近代の干拓地、藤田地区と相対しています。もとは海に接する干潟のような土地だったと考えられ、村の北部は中世に開墾され、南部は近世初頭(寛永~承応年間)に開拓されました。
 したがって藩政期には富田、西市、新保、米倉、万倍、泉田、当新田の7村がありましたが、明治22年(1889年)にそれらが合併して芳田村となり、昭和27年(1952年)に岡山市へ編入合併されました。芳田村役場で保管されてきた文書の一部は、昭和30年代の市史編纂に際して移管され、岡山市立中央図書館に収蔵されています。
 そこでこのたびは、旧芳田村の米倉地区を中心に、江戸時代の年貢貢納文書と、明治6年に始まった一連の地租改正の後の文書を展示します。
 文書の実物を目にすることで、徴税の実務を思い浮かべることができます。村人たちと藩や政府との関係を考えながら、明治維新による制度改革と、それが村へ与えた影響を実感いただけたら幸いです。

土豪開発新田としての村のはじまり

 明治時代に旧芳田村を構成することになった江戸時代の7村のうちのいくつかは、江戸時代初期に、中世の土豪の流れをくむとみられる有力者が入り、その指導で低湿地が開墾され、村となったものでした。
 米倉村は、寛永5年(1628年)に備中松島の浪人、和気与左衛門が移住して藩の許可のもとに新田を開発したのが始まりで、彼はその功によって庄屋となり、子孫が代々、大庄屋を世襲するようになりました。また、隣接する当新田村も、彼の弟の和気与七郎(当庵)が、承応2年(1653年)に開発した新田でした(谷口澄夫『岡山藩』194頁、岡山市地名研究会『岡山市の地名』418~420頁を参照)。
 歴史研究者が注目してきた、開発者一族が世襲的に強い指導・支配をふるった特異な村落運営については、この展示では格別の文書は出品されておりません。しかし村の文書が大切に保管され、明治時代の7村の合併以後も、芳田村役場で藩政期の文書の保存には格別の注意が払われてきたことに、村の歴史への強い意識がうかがわれます。

<展示品>

○検地帳
「承応二暦 三野郡米倉村御検地帳」 1冊
「万治三年 三野郡米倉村御検地帳」 1冊

 豊臣秀吉の統一政権により、全国の田畑の面積が同じ基準の竿で測られ、検地(文禄検地)が行われました。検地は江戸時代にも繰り返され(慶長検地以下の諸検地)、耕作者ひとりひとりの耕地面積の把握が進められて、徴税の基本台帳となりました。
 米倉村からは、承応2年(1653年)と万治3年(1660年)の検地帳が伝わっています。耕地を上田(じょうでん)・中田(ちゅうでん)・下田(げでん)・下々田(げげでん)の4等級に分けて貢納の賦課率を変えたことはよく知られていますが、検地帳では1行ごとに、耕地の種別、耕作地面積、耕作者名が書かれています。2通作成され、1通は領主の側が所持し、他の1通(写し)は村で大切に保管されました。
 毎年の年貢徴収では、この検地帳をもとに、分散して各地にあった複数の耕作地を耕作者ごとにひとまとめにした名簿(名寄帳)が作成され、それによって各耕作者が納める年貢を割り出し、庄屋(のちに名主)以下の村役人の采配で集められました。

「米倉村 承応検地帳」の画像
米倉村 承応検地帳

江戸時代の年貢徴収とその手続き

 江戸時代の年貢徴収も、収税にかかわることですから、領主・領民の双方が納得できるように、大変厳格な手続きをとって進められました。今回の展示の中心は、米倉村に伝わった219通にも及ぶ文書、「定免相」(じょうめんそう)です。これは、地域によっては「年貢割賦帳」とか、「御下札」とか、さまざまに呼ばれる文書ですが、領主(代官)から村(名主、五人組頭、惣百姓)へあてて出された、その年の年貢の請求書にあたる文書です。 
 定免法(じょうめんほう)とは、その年の収穫高に関わらず一定の賦課率を基本にする課税法です。江戸時代の前半には、その年の秋に収穫高を実検し(毛見(けみ)と呼ばれた)、豊凶によって賦課率を変える毛見法(けみほう)が普通でした。しかし代官など作業に当たる人の負担が大きく、不正も行われやすいなどの理由から、享保頃から次第に定免法へ移行して行きましたが、凶作の年は毛見を行うこともありました。


<展示品>

○領主から村へあてた年貢の請求書と領収書
「御下札」米倉村  219通  寛永19年(1642年)~明治4年(1871年)
「上道郡沖新田東西御年貢米村皆済目録」 1枚

 米倉村からは、江戸時代の大半を網羅する219年分の定免相(御下札)がまとまって残されています。それらは芳田村役場で保管されたのち、昭和30年代の市史編纂を通じて当館へ伝えられたものです。
 江戸時代の貢納は、年々の豊凶や、新たな開墾、米以外の商品作物の作付け状況など、諸条件で請求高や内容が絶えず変動したので、年貢請求書にあたる文書は村の経済状態の移り変わりを知る手がかりになります。米倉村など旧芳田村の各村で、毎年の文書がこれほど連続的に残されていることは貴重です。
 そして例年なら11月頃が、その年の年貢の収納期限です。年貢が皆済されると領主から村へ、「年貢皆済目録」という文書が1通交付されます。年貢の領収書にあたるものです。
 明治の地租改正まで年貢は村請(むらうけ)でした。つまり、土地は領主のもので、農民は領主の土地を耕作させてもらっている、そして年貢は村単位で賦課され、村が連帯責任で領主へ納める、という考え方に立っていました。なお、年貢皆済目録は米倉村の例が残っていないので、他村の例を展示しています。

 219通の御下札(定免相)から1点だけを広げて展示したのは、幕末の安政2年(1855年)の1通です(下図)。
 それを少し詳しく読んでみましょう。

御野郡米倉村定免相之事          御野郡米倉村定免相のこと

(1)一 高弐百三拾三石三斗三升  (検地による村の標準高 233石1升)       
(2)又高拾弐石一斗五合      (検地後、開墾等で増加している分 12石1斗5合)
(3)二口高弐百四拾五石四斗三升五合 (以上の合計 245石1斗1升5合)
    内
(4)七石七斗三升五合 年々立米万引高 (耕作不能地等の分の控除 7石7斗3升5合)   
(5)直高百弐拾五石七斗   御蔵   (藩庫へ入れる米 125石7斗)      
(6)残田高弐百三拾七石三斗八升    ((3)-(4) 237石3斗8升)      
(7)物成九拾四石九斗五升弐合 免四つ (課税額=(6)の40% 94石9斗5升2合)
       内
(8)六石弐斗八升八合 樋守給     (樋守への給与 6石2斗8升8合)    
(9)残物成八拾八石六斗六升四合    (樋守給の差引後(7)-(8) 88石6斗6升4合)   
(10)夫米五石三斗弐升        (夫役の年貢による代納分 5石3斗2升)
(11)口米壱石七斗七升三合      (役人の事務手数料 1石7斗7升3合)   
(12)又 五斗三升六合  ぬかわら代 (年貢米を運搬する駄獣の飼料代 5斗3升6合) 
(13)定米合九拾六石弐斗九升三合    (納める年貢(9)+(10)+(11)+(12) 96石2斗9升3合)        
(14)内 弐石七斗五升   大唐米   (うち、粗末な大唐米でよい分 2石7斗5升)
    
右定遣上ハ名主五人組頭小百姓        
入作迄寄合無甲乙令割賦来ル         
十一月中無滞急度皆済可仕候         
猶死失人於有之ハ残為百姓弁        
可上納者也                   

斎木三之丞
  安政二年卯十月廿八日  充成

        名主五人組頭惣百姓中

<本文の文意>
右の定(じょう)遣わす上は、名主、五人組頭、小百姓
入作(他村からの耕作者)まで寄り合い、甲乙なく割賦せしめ、来る
十一月中、滞りなく急度(きっと)皆済つかまつるべくそうろう
なお、死失人これあるにおいては、残るは百姓弁となし
上納すべきものなり

  (代官)斎木三之丞
安政二年卯十月廿八日  充成(代官花押)

       名主五人組頭惣百姓中

 なお、(13)、(14)の年貢高の金額と、紙継ぎ箇所には代官の判(黒印)が押されていて、改ざん等のないように、書類が厳重に作成されていたことがわかります。
 最後の宛名の書き方をみると、代官の名前が上に大きく書かれており、宛名の名主以下が下に小さく、そして現在なら「御中」を添えるところを「中」とだけ書かれています。封建時代の厳しい身分関係を目の当たりにするかのようです。

「米倉村 定免相 安政二年」の画像
米倉村 定免相 安政二年

明治の地租改正とその結果

 明治政府は土地所有のあり方を改革するため、明治4年の廃藩置県で領主支配を廃したあと、明治8年から地租改正を順次進めました。
ポイントは、以下の通りです。
・領主支配権が廃され(廃藩置県)、土地所有者(地主)が納税義務者になった。
・税が、生産物の物納ではなく、金納となった。
・収穫高ではなく、収穫高を基準に決められた地価が、課税標準になった。
・全国に同一制度が行き渡った。
 以上の改革により、土地の所有権は領主から個々の所有者(地主)に移り、その証として地券が交付されました。また、地租を金銭で納めることになりました。
毎年の税率は当初、地価の3%と定められましたが、これはかなりの重税で、強い反対運動が起こり、税額は次第に低減されました。このことは、多くの人々の意見が国政へ反映されるようにと、自由民権運動の勃興のきっかけにもなりました。

<展示品>

○村絵図、地図
「御野郡米倉村絵図」 縦58cm×横153cm
「明治八年地図帳 岡山県管下第四十二区備前国御野郡米倉村」
「明治十三年十二月 岡山県管下備前国御野郡米倉村地図」(添付ファイル1)
 耕作地を把握するために、江戸時代から各種の絵図が作成されていましたが、明治の地租改正の際には新たに測量をし直し、正確な産出高の把握が試みられました。このときの地籍図が、現在の登記簿へ引き継がれて行きます。しかし明治の地図も、今日の水準からすればまだ厳密ではなく、土地境界のトラブルは絶えません。現在も各地で測量の努力が続けられています。


○廃藩置県から地租改正への過渡期
「租税上納割賦及皆済帳」御野郡米倉村 6冊 明治5~7年
(内訳)当申租税上納割賦帳      1冊
    明治五年壬申年租税皆済帳  1冊
    当明治六年租税上納割賦帳  1冊
    明治六年租税皆済帳     1冊
    当明治七年租税上納割賦帳  1冊
    明治七年租税皆済帳     1冊
 書類の形式が1枚ものから冊子に変わっていますが、 それぞれ江戸時代の年貢の御下札(定免相)と皆済目録に相当し、税の請求書と領収書にあたるものです。新政府は明治4年に廃藩置県を断行したので、租税の納付先は旧領主(藩)から県に変わっていますが、この過渡期には、まだ税が村全体へ賦課されていた点が、江戸時代と同じです。

○貢納から地租へ
「明治八年十二月 地券税人別仕訳帳」米倉村 1冊
 土地を所有者ごとにまとめて記載した、地券の交付にあたっての台帳です。訂正の貼紙や書き込みが多くあります。個々の耕地の地価が計算され、そのそばに朱色の文字で租税額が書き加えられています。地租改正を通じて物納(年貢米等の産物)から金納(地租)に変わって行く過程がうかがえます。

「地券」上道郡九蟠村 明治9年 2枚(表と裏を展示。下図)
 明治8年から順次進められた地租改正によって、土地の所有権は旧領主から地主(個々の耕作地の新たな所有者)へ移り、土地の個人所有が認められました。当初はこのような地券を地主へ交付して、土地所有と納税義務を証明しましたが、明治18年に登記制度が始まると、地券に代わって役所で保管される登記簿により、土地所有が証されるようになります。
 なお、地券については米倉村の例がないので他村の例を展示し、個人名を伏せています。


○免租を願う文書
「明治二十五年十一月 潮入損害地免租年期願」 芳田村米倉 4冊
 低湿地が多い芳田村は、たびたび大水に見舞われました。特に承応3年(1654年)、明治17年(1884年)、明治25年(1892年)は大きな被害が出ていますし、昭和9年(1934年)の室戸台風災害でも、旭川堤防の決壊で岡山市中心市街地からの洪水が押し寄せています。
 地租改正では、全国一律に地価に対する一定率(当初は3%)が税額と定められましたので、江戸時代のように、その年の豊凶によって税を加減するわけには行きません。この明治25年の免租願い文書は、そのことを背景にして考えるべきものと思われます。

「地券」の画像
地券

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