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戦争・戦災体験記:広島原子爆弾被爆の思い出

広島原子爆弾被爆の思い出  山本 正夫

 昭和20年8月1日、臨時召集に応召、岡山駅を出発し故郷の友たち福田村の6人と行を共にする。福元の兄浮田潔も一緒だ。夕方広島駅着、駅前から歩いて鉄道沿いに少し西に行った所の安宿の2階の1室に宿泊する。
 瀬戸内特有の夏の蒸し暑く寝苦しい一夜を明かして翌2日、中国第114部隊(工兵隊)に入隊のために白島町の工兵隊牛田作業場に集合、砲兵隊に入隊の岡郁夫さんと別れて(彼は広島城下の砲兵隊)、工兵隊に入隊した者は私と兄と同級生百田の田中豊君と他に宗三の坂井栄さん、豆田の佐藤槌太さんだったと思う。牛田作業場の広場に集合して体操と痔の検査位のいとも簡単なる身体検査の後全員合格、その後引率されて太田川を渡って対岸の国鉄(JR)横川駅北の三篠国民学校に入る。
 三篠国民学校において編成を行い、私と兄は同中隊の中部第28374部隊、独立工兵第116大隊第2中隊に編入される。(約240名)
 兄は衛生兵のために中隊指揮班に属し、私は第2小隊に属し第1分隊員となる。歩兵出身の自分がなぜ工兵隊に入隊したかという訳は、新兵ばかりの召集で分隊長要員で入ったのだが、人員が余ったのか分隊員となる。第1分隊長は工兵出身の軍曹中西正夫(和気、福河、寒河)、第2第3分隊長は歩兵出身の兵長、第4分隊長は工兵出身の伍長(島根出身のズウズウ弁の人)の他、私の分隊に工兵出の一等兵荻原達夫(岡山鉄道工事部勤務)を除き全員年寄りの召集2等兵のみ。(広島出身が大多数)
 支給された被服、兵器も終戦前の事とて数少なく、軍衣袴、襦袢、袴下、巻脚絆、編上げ靴、雑嚢、背負袋等を各1つづつ、飯盒は分隊に2個、水筒も同じく2個、他は飯甲柳、菜甲柳で代用、30年式銃剣も分隊に3丁位で後は代用剣、38式歩兵銃に至ってはお目にかからずじまいに終わる。部隊編成途上において、運命の8月6日を迎える。
 昭和20年8月6日午前7時校庭において日朝点呼を終えて室内に入る。2階南窓際が第2小隊の居所だ。おりから警戒警報発令中のために軍袴、巻脚絆着用、上衣襦袢は脱ぎ、素っ裸で食後の雑談中、運命の8時15分「ピカッ」と雷光のごとき、又はマグネシュウムをたくごとく一瞬の閃光に何事かと思っていた次の瞬間にドドドドッ…と地震か又は百雷が一時に落ちたかのごとき轟音に校舎はグラグラと揺れ、天井からは土煙を立てて土と瓦の落下、教壇の前に掛かった黒板はドターンと音をたてて落ちてしまった。
 思わずその場に伏せる。ややあって土煙の中を我先にと階下に逃れる。階段は外れて今にも落ちそうになっている。2階から裏庭に飛び降りた人もあったと聞く。飛び降りた人がどうなったかは知らない。下に降りて校庭に出て人々を見れば、誰も彼も大きいか小さいかの違いで負傷していない者とてはない。自分も額の上からタラタラと生暖かいものが流れ出ているようだった。学校の前の(南の横川駅方面)人家はほとんど倒れて瓦の下からチョロチョロと火が燃えかかっているのが見える。その向こうに一段と高い横川駅のホームが見える。これは余程大きな爆弾が落とされたものだと心の中で驚き入る。そうこうするうちに火はだんだんと大きくなって、校舎も焼け始めた。校舎の西にあった講堂が燃え始めた。将校が上半身裸で背中一杯に大火傷を負いながらもズルムケの体で大声にて、「体の良いものは出て来い。バケツリレーをやって火を消す。」と先ず講堂にバケツリレーを行うところだが人が集まらない。無傷の者はいないのだから仕方がない。それでも自分を初め30人くらいが出てバケツリレーを行ったが火の勢いは強く、その上水道が断水。水が出なくなってはどうすることもできない。そのうちに学校周辺の民家の火は大きくなり、あまり学校に長居をすると逃げられなくなってしまうので、2階の窓から放り出した背負袋を持って(誰のかわからぬものを)毛布をかぶって裏門の内にあった防火用水を頭からバケツで一杯かけてもらって門を出て、可部線の線路を越えて西北の山の方に逃げて行く。途中小さな藪の中で衛生兵が火傷?の治療をやっていたので、自分も右肘後部と後頭部がヒリヒリと痛むので薬をつけてもらおうと立ち寄り、白色の硼酸軟膏をつけてもらう。こんな薬しか薬はないのだ。地方人にもみんなつけてやっていたのを覚えている。どうしてあちこちがヒリヒリとやけどのように痛いのか不思議でならなかった。山に行く道路にはどこからやってきたのか体中ズルムケの体で幽霊のような格好で手を前に出して手首をダラリ下げてゾロゾロ歩く者、もう虫の息で道路に横たわる者、その数は数え切れない。皆一様にゾロゾロと郊外へと歩んでいる。道に横たわったズルムケの人を退けようにも持つところすらない有様。通れないために初年兵に退けさせたことを覚えているが、今になってあの人は誰だったろう、おそらく死んでしまっている事だろうと悔やまれてならないが、あの時はどうすることもできなかった。
 ようやく山にたどり着き、部隊の集結をしている内に空は真っ黒になって、にわか雨がザアザアと音をたてて降る中を山の中で、まして軍隊、傘はなし。全員ずぶ濡れの濡れ鼠となる。後に知ったことであるがこの雨が強い放射能を帯びた黒い雨だったのだ。
 そのうちに昼となり、三篠国民学校まで昼食をとりに行く使役を募、自分も軽傷のため使役に出て飯上げに出発。学校に向かう途中の民家は散々にやられているにもかかわらず、爆弾の穴らしきものも見当たらず、おかしい事もあるものだと思いつつ歩を運ぶ。山の中の一軒家に至るまで壊れかかっているではないか、又8月の稲田の青々とした葉先が火をかぶったように葉を巻いている。家の陰になった所とそうでない所がきれいに別れて焼けているように見える。不思議(だった。学校に着くと学校は跡形もなく焼け落ちてしまっていた。付近の民家も完全に灰になっていた。広い校庭に作られていた甘藷畑の甘藷の茎と葉も完全に焼けてしまって跡形もなし、この有様では残っていても無駄だったなと感じられた。逃げ遅れた者か甘藷畑のそばの防空壕の中で真っ黒の焼死体となっていた人が1人あった。今から考えてみて、この焼死体の人を探した事はなかったと覚える。なぜだったろう、名前も知れず、そのまま放ったらかし、探そうとも思い出そうともしない。本当に当時の頭の中はどうかしていたとしか考えられない。
 焼け跡の炊事場に行って黒焦げの飯を少しもらって帰る。朝飯の後に昼食用に釜の中に仕掛けた米が火事で飯になっていたのは良いが、少しばかり煮え過ぎで鍋蓋までも灰になり、黒こげと消し炭を混ぜた飯を持って山に帰る。
ってもあたりはしない。むしろ下痢止めだ。
 山の中での土砂降りの中にも北の方の可部、飯室の方は青空でカンカン照っているのが分かる。広島の上空のみ真っ黒で大雨である。やがて雨が上がって空襲もなく、山中では仕方ないので、地方人と一緒に列となって我が隊も北上する。分隊も何人(いて何人集結したのか不詳である。探そうともしないのだ。北上行進中、右上膊部裏および右肩甲骨のあたり、右後頭部がヒリヒリと痛む。ガラスの破片による傷の出血は止まっている。どうしてこんなにヒリヒリと痛むのかと思いつつ歩くうちに、上膊部の裏は幅5センチ長さ10センチ位の大きな水ぶくれとなり、ダブダブと水が溜まり、又いつの間にか破れてしまっていた。右肩の下は少しひどく、ズルズルになっている。
 兄は指揮班で階下だった。窓から逃げようとして出かけた時に材木に挟まれ背中を強く打ち、一人では歩行困難で両側より肩を貸してもらって歩いていたのを見た。途中どこかの学校に立ち寄った。この学校に入るのかと内心喜んだものの、ガラスは全部壊れ宿営することが困難だと思ったのか又北上を続けた。途中には相も変わらずボロボロの布を付けた如き大火傷を負った人々の列が続いている。自分の隊は仕方なく祇園の付近の竹薮の中に入ることになる。
 それにしても今回の広島の爆弾はどんな爆弾だったのだろう。自分が先に経験した水島の三菱航空機の被爆の状態を見ているので何としてもおかしいと思った。水島に落とされた爆弾がどの位のものか知らないが、爆弾の穴は直径10メートルくらいはあったと思うのに、ここにはその様な穴は一つもない。おかしいなと思い続けていた。やがて情報では新型爆弾だとの事であった。ピカドンだと言っていた。
 本日(8月6日)より祇園の竹薮の中で露営だ。敵機より蚊の襲来が恐ろしい。夜に入り夕食を牛田の工兵隊に取りに行く、使役に出よとの事で軽傷の自分は又しても使役に出る。大田川の右岸を下って工兵隊の対岸まで15、6名、それこそ真っ暗闇の中を歩いていく。対岸に到着、引率の班長の命で一部の受領者のみ乗船、他の者は川岸で帰るまで待機。その間真っ暗な川岸で煙草の火も隠しながらも待つ間異様な声に驚かされる。なんだろうかと思い声の方に近づいて見ると川原には多くの兵隊が寝かされている。対岸の工兵隊の負傷者を運んできているらしく時折トラックが来てこの負傷者を北の方に運んでいるのだ。それでも数の多い負傷者にどうにもならずほったらかし、うめく者、水をくれとせがむ者、この世の地獄図であったろう。「水をくれ。水をくれ。」と呼ぶ声に応じて、「今水を飲んでは駄目だ。苦しいだろうが我慢せよ。」と大きな事を言って、近寄って夜空の明かりで襟を見れば金筋1本星2つの軍曹殿、何が何だか分かったものではない。これも今になって考えれば、このような重症者、元気になったかどうかそのことは不明だが、欲しているただの水。一口川の水を掬ってやっていたらと思われてならない。やらなくて助かっているかもしれないが…。そのうち船が帰ってきて飯を持って現場を後にする。そのようなものをかまってはいられない。自分の隊の者が腹を空かして待っているのだ。夜更けに藪の中に帰隊して遅い夕食を配り、ようやく食事ができて被爆第1夜を祇園の竹薮の中で迎える。この夜新型爆弾が落とされたことを聞く。道理で穴がないのだと一人で合点する。竹薮の中で過ごすこと数日、夜の蚊の襲来には恐れ入った次第、その後付近の民家に分宿することになり藪を出る。
 大隊本部は原の国民学校に入る。自分の小隊は民家の納屋の土間に筵を敷き、当分ここが我々の宿舎となる。他の小隊の宿舎を訪ねてみて、部屋に入っている所もあり、この時の宿舎の不平等を嘆く。中隊本部、指揮班も大きな家に入って畳の上にいた。自分は怪我と火傷のために8月10日頃少し離れたお寺に入っている医務室に入室する事になった。ここで毎日火傷の治療をやってもらう。毎日油薬と硼酸軟膏の塗布、何しろ薬がないのだ。
 入室中我が家へは無事な事をはがきでちょっと民間人の如くに通知しておいた。8月15日重大な放送があるとの事でお寺の近所の民家のラジオにかじりつき天皇陛下の放送を聞く。「ああやっと戦争は終わったか。これでどうやら家に帰れる。」と内心喜んでいた。それも道理結婚1年半、妻の腹の中の子供を見捨てて出てきたのだから。(長男9月15日出生)当時としては実に不忠の民と言うか兵であった。
 自分の隊は15日出発で東部防衛司令官の隷下に属するために、東京方面に行くことになっていた。先発隊はすでに出発していたが「15日に重大な発表があるので待機せよ。」との命令でそのまま待機していた。
 そのうち火傷も怪我も少しは良くなったが、医務室に薬がないので入院せよとの軍医の命で自分以下5、6名を引率して病院に行くことになった。歩いて出発、途中民間のトラックに便乗(して可部に行き、案内の衛生兵に聞くと一)杯でどうにもならぬとのことで、仕方なくまたも民間のトラックに便乗して北の峠を越えた飯室の学校の病院へと行く。病院に着いて早速軍医にそのことを話すと「お前たち来るのは良いが、一度病室へ行って患者を見て来るが良い。どんな患者がいるか、お前達のような軽傷者は一人も居ないぞ、早速帰れ。」との事に恐れ入るが、早速の便はないので、一夜の宿泊を頼む。宿泊を許可されやむなく病院で一泊、翌朝帰ることを約した。翌朝又も民間のトラックに便乗して、峠を越えて祇園の医務室まで引き返して軍医にそのわけを言って又入室患者にしてもらった。終戦で入室患者全員に一通りの被服の支給があった。そのうちに傷も良くなり、一応退室して小隊に帰る事になり、小隊に帰ってきて又一通りの被服の支を受け、軍衣袴は2着となった。入室から帰って幾日目だったろうか、朝7時ごろだったか急に気分が悪くなり、頭が割れるほど痛くなって人事不省寸前というくらい痛んで吐き気をもよおし、相当高熱があるようなので、早速初年兵を指揮班にやって衛生兵にすぐ来るように頼む。中隊付きの衛生兵浮田上等兵すなわち兄である、兄はびっくりして飛んできた。その頃は兄も腰の方は大分良くなっていたので、早速注射を打ってくれた。何を打ってくれたか知らないが、少しは気分が良くなった様だったが、一日中頭が上がらなかった。下痢も伴って非常に苦しい一日だったが、翌日は大分良くなって起きられるようになった。後で聞いた事だが、これが原爆病とか、コロリ病とか言ってなんでもない元気な人が突然このような症状に襲われてコロッと死んでしまうことがあるそうで、自分の場合軽く来たので何事もなく済んだものの、後で考えればゾーッとする思いであった。自分も三途の川の近くまで行って渡る事が出来なかったと考え、幸いであったと思う。
 何日(だったか覚えていないがある日のこと、村の西の入り口付近にあった大師堂のような小さなお堂にて衛兵勤務に分哨長で出ていた時、一人の老人が訪ねて来た。誰かと思ってみれば父親である。自分が歩兵であった事を知っていたので歩兵隊を探しても見(み)当(あ)たらず、村から一緒に捜しに来た人は全部諦めて家に帰ったのに一人残って捜しに捜し、ようやく祇園を捜し当てて来たとの事だった。地方人は召集入隊先が中国第114部隊とは知ってはいても(召集令状での入隊先を見ていた)、それが工兵隊であることは分からないのは当然である。2人の子供を広島に出し、新型爆弾ピカドンで広島は全滅と聞いたことだろう。じっとはしておれなかったのだろう。分哨長として出ていた自分に偶然にも会えたと言うことは何かの縁か、又は父親の執念がそうしたのだろうか。自分は父親の苦労を謝し、兄貴もどうにか元気でいることを告げ、やっと安心した。兄には会わずに帰るからと言葉を残して帰っていった。偶然とは言え自分がでていた分哨で会うことが出来ようとは…親父の心中察するに余りあり、家(山本家)の方は入室中に無事を知らせてあるので大丈夫と思っていたが、実父が来ようとは…工兵隊に入った者は一応皆元気でいることを村の人にも伝えるように父に言っておいた。その頃はもう終戦、武器の返納・軍隊手帳の焼却等指揮班で行っていた。自分たちはのんびりと帰る日を待っていた。夜ともなれば近所の軍の被服庫を荒らし回り、糧秣倉庫を荒らし、又白昼堂々と砲兵隊の皮長靴を隊を組んで頂戴すると言う一幕もあった。倉庫と言っても当時軍は空襲を逃れるために全部農(家の納屋に疎開をしていたので、取りに行く兵隊がどこの兵隊か分からない為に出来るもので預けた隊の者が監視に来ていては出来ないことである。又その間に給与も追加(払い等で相当の金を貰った。2百円札を初めて見たように思う。
 8月も終わりに近い頃、自分は負傷しているが治療が出来ず、困って中隊長に申し出た。中隊長は快く「隊で治療出来ないなら帰って治療せよ。」と8月29日付けで帰郷療養証明書を作ってくれた。期間は1ヶ月間であるが、部隊に帰ってこなくてもよろしいとのことであった。広島駅まで出るために近くの太田川を渡し舟で渡り、対岸の山裾の芸備線戸坂駅に大(おお)きな柳(やなぎ)甲(こう)柳位の荷物を背負って出た。ようやく列車に乗り込んで広島駅まで出る。広島駅も焼けて面影はなかった様である。構内からは出なかったが駅前も「焼け野が原」だった。復員列車が次から次へと通るけれど、どの列車も満員で、仕方なく窓から荷物を投げ込んで自分も窓から飛び込む。そして一路岡山へ、岡山駅に着き駅から家まで3キロ位を大きな荷物を背負ってエッサエッサと歩(ある)き我が家へ、ようやく我が家に着いたのは夜の10時ごろだったろう。帰ってみると家のものは皆疎開して田舎へ行ってしまっていた。家には親戚の人が焼け出されてきていたので翌日家族のいる田舎へ行った。後から聞いた話では、自分が帰った後部隊は移動して岩国の爆撃の後片付けをして9月の終わりごろ解散召集解除になって帰ってきたと聞く。自分は早く帰ったために終戦のポツダム進級は貰うことは出来ず、そのまま兵長であったけれど元気で帰れたことは幸いだったと思う。一緒に行った友の中、一人だけ岡郁夫さんは帰らぬ人となってしまった。彼の入隊した砲兵隊は全滅したと聞く。後に県の世話課に届けを出して始めて昭和21年4月8日召集解除となった。三篠国民学校は爆心地より1.8キロの地点で、特別被爆者手帳505号の特別被爆者手帳を交付された。以上で自分の被爆体験記を終わる。

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