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戦争・戦災体験記:戦火に追われた青春

戦火に追われた青春  前田 照子  77歳

 私は4才のとき両親とサイパン島に移住し、ガラパンの町で少女時代を過ごした。昭和19年、サイパン高等女学校の卒業が近づく頃から、米軍機動部隊の攻撃にさらされるようになり、在学中に海軍の「設部隊」に準軍属として動員され、飛行場建設に明け暮れていた。
 在留邦人に対して内地へ疎開するよう勧告が出されたが、家業と父の役職の都合で容易に島を離れることはできなかった。その間に島全体が異様な雰囲気に包まれてきたので、遂に意を決し、父が内地で軍関係の仕事に従事する条件で特別に許可を得て、一家8人全員が本土に引き揚げることになった。
 しかし、島を一歩離れれば、空と海の両面から攻撃目標になり、無事に帰国できる可能性は極めて低い。家族が別々の船で帰ることとし、私は両親たちより一足先に5月16日夕刻「備後丸」に乗船した。「これが今生の別れになるのでは・・・」と、万感胸に迫って、唯々航海の安全を祈るばかりでした。闇にまぎれて、午後11時頃サイパンの港を離れた。
 駆逐艦に護衛されて、魔の大海原を進む。船内では、救命具を着け、避難訓練が繰り返された。海に投げ出されたときに備えて、水筒と鰹節を肌から離さなかった。突然ドラが鳴り、敵潜水艦接近の報に肝を冷やしたことも再三でした。少しでも安全な航路を選びながら、沖縄方面に大きく迂回して5月27日にやっと横浜港に接岸できました。両親たちを乗せた「筥﨑丸」も5月31日無事に帰り着くことができ、家族全員が揃って再会できたのは奇跡的と感謝しています。
 その日から半月後には、米軍がサイパン島に上陸を開始したのです。1週間後に内地へ向かった船は小笠原諸島沖で撃沈され、私たちの船が最後の引揚船になりました。もし、あの船に乗らなかったならば、島に残った多くの友人、知人たちと同様に、軍と行動をともにし南の島で散り果てていたことでしょう。
 内地へ帰ってから、女子挺身隊として上京、軍需工場で働いていた折、昭和20年3月10日未明の東京大空襲で戦火を浴び、命からがら多摩川の河川敷に避難し九死に一生を得ました。岡山市に住む両親のもとへ帰ると、6月29日の岡山空襲に遭い、またも被災し劫火の中を逃げ惑った。戦禍のため翻弄され、死と背中合わせの青春を生き抜いてきました。
 二度と戦争の悲劇を繰り返してはなりません。今日の平和の尊さをかみしめ、恒久平和実現を祈念し、平和への誓いを新たにしたい。

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