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市内に残る戦災の遺跡

市内に残る戦災の遺跡

岡山市役所の焼け跡の写真

昭和20年6月29日市内中心部を焦土に変えた岡山空襲。
 65年以上経った今でも被災した建築物が各地に残っています。
 現地を訪ねると、当時の惨状を思い浮かべるとともに平和の尊さを感じずにはいられません。


(右写真は『岡山市史 戦災復興編』より)


1 田町橋(中央町)

田町橋の写真

 田町橋は、明治43年(1910年)はじめは木橋としてかけられ、昭和5年(1930年)に現在のコンクリート橋となりました。
 しかし、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により田町橋周辺は特に大きな被害を受け、西川でも多数の人々が亡くなりました。
 ただ田町橋はかろうじて焼け残り、欄干に深い傷跡を残して、かつての大惨事の記憶を今に伝えています。


          平成7年3月説明板設置


2 本行寺山門(蕃山町)

本行寺山門の写真

 本行寺は旧山崎町(現、野田屋町)にありました。
 しかし、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により、道路に面した山門だけを残して焼失してしまいました。
 戦後、寺は現在の場所に再建されました。ケヤキで造られた山門は、焼夷弾の油脂によりその柱に大きな穴が開いてしまったものの、そのまま境内の正面に据えられ、かつての傷跡を現在に伝えています。


          平成7年3月説明板設置


3 玉井宮鳥居(東山一丁目)

玉井宮鳥居の写真

 玉井宮は応徳2年(1085年)小串米崎(現、小串)から当地に移され、この鳥居は安永4年(1775年)に参道入口に建てられました。昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲の際、社殿は焼失を免れましたが、鳥居の一部が破損してしまいました。
 現在では残りの一部が戦災の記念としてこの場所に移され、当時の記憶を今に伝えています。


          平成7年3月説明板設置


4 蓮昌寺(田町一丁目)

蓮昌寺の写真

 蓮昌寺は、室町時代初期の創建と伝えられ、江戸時代初期の城下町整備に伴ってこの地に建築され、戦災前は本堂(桃山様)・三重塔 (室町様)が国宝に指定されていました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲の際、田町付近は特に激しい被害を受け、寺の建物はすべて焼け、当時の住職も亡くなりました。
 わずかに残った法華塔、頌徳碑、灯籠、句碑にも焼夷弾で焼けた跡や折れたり、欠けたりした傷跡が見られます。


          平成8年3月説明板設置


5 岡山城石山門跡(丸の内一丁目)

岡山城石山門跡の写真

 石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路になっていました。
 岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により焼失してしまいました。
 石垣に残る赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。


          平成8年3月説明板設置


6 三友寺山門(門田屋敷一丁目)

三友寺山門の写真

 三友寺は、寛永9年(1632年)池田光政が鳥取藩主から岡山藩主になったとき、播磨の国(現在の兵庫県)から岡山に移転しました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により本堂などは焼けてしまいましたが、山門だけは柱の一部と鯱の尾が被害を受けたものの、修理を受けながら現在まで残され、戦禍の記憶を今に伝えています。


          平成8年3月説明板設置


7 れんが塀(南方小学校・南方一丁目)

れんが塀の写真

 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により南方付近も大きな被害を受け、市立旧南方小学校、幼稚園の建物は全焼しましたが、当時周りにめぐらされていたれんが塀は焼け残りました。
 その後、塀は、校舎改築の際に大部分が取り壊されましたが、残された部分の焦げ跡が空襲の激しさを今に伝えています。


          平成9年3月説明板設置


8 大雲寺(表町三丁目)

大雲寺の写真

 大雲寺は、江戸時代初期の城下町整備に伴ってこの地に移され、そのとき地下から出たと伝えられる地蔵像、「日限地蔵」として知られてきました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により寺は全焼、本尊の阿弥陀如来像のほか、境内の多くの地蔵像や灯籠も被災しました。
 これらの像や灯籠には焦げたり、折れたりした跡が残り、かつての大惨事を今に伝えています。


          平成9年3月説明板設置


9 岡山城天守台(丸の内二丁目)

岡山城天守台の写真

 岡山城の天守閣は慶長2年(1597年)に竣工、その外観から烏城または金烏城とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。
 その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、空襲の激しさを伝えています。


          平成9年3月説明板設置


10 蔭凉寺(中央町)

蔭凉寺の写真

 蔭凉寺は、寛永9年(1632年)、前岡山藩主池田忠雄から与えられた土地に建立されました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により寺は全焼しましたが、石塔や水鉢は焼けたり、欠けたりしながらも残り、かつての戦火の激しさを今に伝えています。


          平成10年3月説明板設置


11 春日神社玉垣(七日市西町)

春日神社玉垣の写真

 春日神社は、この付近が鹿田荘と呼ばれた荘園の頃からこの地にありました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により主な建物は焼け、本殿の周囲にめぐらされていた玉垣も一部が折れてしまいました。本殿はその後再建されましたが、玉垣は当時のままの姿で残され、戦禍の記憶を今に伝えています。


          平成10年3月説明板設置


12 岡山神社(石関町)

岡山神社の写真

 岡山神社は、天正元年(1573年)宇喜多直家の城整備に伴ってこの地に移され、酒折宮とも称しました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲によりここ石関町付近は焼け野原となり、岡山神社も多くの焼夷弾を受けて主な建物は焼けてしまいました。
 境内の数々の灯籠に残る傷跡が戦火の激しさを今に伝えています。


          平成10年3月説明板設置


13 浄教寺山門(御成町)

浄教寺山門の写真

 浄教寺は、もとは播磨の国英賀保にあり、その後岡山の城下町に移され、さらに大正2年(1913年)この地に移されました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により寺とその付近は焼けてしまいましたが、山門だけは焼失をまぬがれました。
山門に残る戦禍の焦げ跡が当時を今に伝えています。


          平成10年3月説明板設置


14 大福寺(御成町)

大福寺の写真

 大福寺は、報恩大師が備前四十八か寺の一つとして奈良時代に和気郡伊部に建立したと伝えられ、岡山藩の整備に伴って寛永年間に岡山城下に移転したものです。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲時、この付近に多数の焼夷弾が落ち伽藍の大半が焼失しましたが、客殿、山門などは被災を免れました。
 現在でも 焼夷弾により炎上した本堂の炎で焼け焦げた痕跡のある大地蔵や、一部の欠けた石の手洗いなどの被災物が現存しています。


          平成15年3月説明板設置


15 蓮昌寺題目石(田町一丁目)

蓮昌寺題目石の写真

 岡山空襲の時に損壊した「題目石」が、平成12年(2000年)、工事により、元の蓮昌寺境内から出土した。
 国宝であった本堂と三重塔の間の参道脇に建立されていた題目石で、南無妙法蓮華経の題目が刻まれていた。
 一帯が空襲で焼失した際に倒壊したため、埋め片付けられていたうちの二つの破片が掘り出されたもので、被災の激しさを物語っている。
 台座は残っていたが、昭和53年に平井山墓地の蓮昌寺墓所へ移転され、保存活用されている。


          平成16年3月説明板設置


16 玉井宮本殿屋根(東山一丁目)

玉井宮本殿屋根の写真

 玉井宮は応徳2年(1085)に小串米崎から当地に移ったと伝えられ、正保2年(1645)に岡山藩主池田光政公の命により、東照宮をこの地に招いて祀った。
 明治初年に玉井宮と東照宮が合祀された後、西日本屈指の大拝殿の建立等大造営が行われ、今日の姿になった。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲では、本殿の屋根(銅板)にも焼夷弾が落下し、一部が焼け、現在でも張り替えられた本殿屋根の銅板に修理の跡が明確に残っており、かつての戦火の激しさを伝えている。


          平成17年3月説明板設置


17 旧岡山藩藩学跡

旧岡山藩藩学跡の写真

 岡山藩藩学は、藩主池田光政が藩士の子弟教育のために、寛文9年(1669)に城下に設けた藩校です。
 藩学は明治維新の後には、岡山県師範学校に引き継がれ、さらに明治44年(1911)に岡山県女子師範学校になりました。
 大正11年(1922)に残存していた藩学の建物の南門・校門・講堂と周辺用地が、国指定史跡になりましたが、昭和20年(1945)6月29日の空襲で建物が焼失しました。
 今日では岡山中央中学校の校庭の南西隅に半円形のはん池が残り、当時の面影を今に伝えています。


          平成18年3月説明板設置


18 荒手茶寮

手茶寮の写真

 荒手茶寮は昭和8年(1933)、古京町にあった岡山藩家老伊木家の屋敷(荒手屋敷)を利用して暖簾を掲げたのが始まりです。池田家の家老伊木三猿斉は茶人として有名で、その屋敷も数寄を凝らした茶室、布置の妙を極めた庭園を配していました。昭和9年(1934)の室戸台風で水害に遭い、現在地へ移築しましたが、昭和20年(1945)6月29日の岡山大空襲で、後楽園の延養亭や鶴鳴館などとともに全焼しました。しかし戦後、当時の資料をもとに再建され、現在に至っています。建具、灯篭、建物の一部などは延焼をまぬがれ、今も当時の名残をとどめています。


          平成19年3月説明板設置


19 旧岡山女子商業学校

旧岡山女子商業学校の写真

 旧岡山女子商業学校は、明治35(1902)年4月、岡山市立岡山商業学校として磨屋町に開校し、翌36(1903)年11月、私立養忠学校跡(現、岡山県立図書館)へ移転した。開学当初は男女共学であった。昭和12(1937)年4月に男子部は岡山市奥田に完成した新校舎に移転、女子部は岡山女子商業学校と改称し従来の校舎を使用した。戦局の進展に伴って、兵役、軍需産業方面への徴用等により男子事務員は欠乏し、女子事務員の需用が増加したため女子商業教育は拡充されていたが、昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲により校舎は倉庫を残して全焼した。 戦後、その敷地は、丸の内中学校として使われ、平成16年9月に岡山県立図書館が新築開館した。

          平成20年3月説明板設置


20 金刀比羅(ことひら)神社 (野田屋町)

金刀比羅(ことひら)神社の写真

 金刀比羅神社は、天正元年(1573年)宇喜多直家入城による城下町整備に伴ってこの地に創建され、その後岡山城主となった宇喜多秀家が国家安泰の祈願所とした神社で、金比羅大権現として祀られていましたが、明治2年5月に現在の社名に改められました。金刀比羅神社前は、西からの諸大名が参勤交代に江戸に赴く道筋であり、諸大名や旅人が拝礼し通過していたと伝えられています。戦災前の建物は本殿、弊殿、拝殿、渡殿、人馬殿などがあり、末社として稲荷神社、天神社、疫神社、春日神社を擁していました。  昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により、付近一帯の市街は焼け野原となり、金刀比羅神社も多くの焼夷弾を受けて建物は全焼しましたが、狛犬や燈ろう、手水鉢は、焼夷弾により焼けたり、欠けたりしながらもかろうじて残りました。  終戦の翌年には、本殿及び社務所が再建されたといわれ、狛犬や燈ろう、手水鉢も修復されましたが、残された傷跡がかつての空襲の激しさを今に伝えています。
                                                            平成21年3月説明板設置


21 光乗院(東中央町)

光乗院(こうじょういん)の写真

 光乗院は、三宝荒神を本尊とし、池田光政が寛永9年(1632)に、鳥取城下にあった真言宗円寿院を岡山に移して天台宗に改めた寺とも、それ以前の池田忠雄の代に、光輪坊秀法印が大工町(現在の東中央町)に建立した寺ともいわれます。光乗院の境内には、和霊大明神や稲荷神が祀られています。
 戦前には、光乗院の本堂、庫裡、稲荷堂、和霊堂、阿弥陀堂、金比羅堂、太子堂、愛染堂などがありましたが、昭和20年(1945)6月29日未明の岡山空襲により、大工町(現在の東中央町)は一戸も残らず焼け野原となり、光乗院にあった建物も全焼しました。
 戦後、建物は徐々に復興され、鳥居や割れた手水鉢も修復されましたが、焼夷弾によって欠けた燈ろうや、焼けあとの残る石垣など、残された傷跡がかつての空襲の激しさと焼夷弾の猛威を今に伝えています。

          平成22年3月説明板設置


22 内宮

内宮の写真

 内宮は、天照大神を祭神として、天正9年(1581)に現在の地に遷座されたと伝えられています。その後、大正2年(1913)には、野々宮に祀られていた倭姫命と、日吉神社に祀られていた大己貴命が合祀されました。境内には、江戸時代に建立された本殿、幣殿、拝殿、表門などがありましたが、昭和20年(1945)6月29日未明の岡山空襲により、浜野にも焼夷弾が投下され、内宮の建物は、表門と境内、神社二社(稲荷神社・天満宮)を残して全て焼失しました。戦後、本殿、幣殿、拝殿が再建されましたが、昭和初期に造られた本殿の玉垣には、空襲による焼け跡や、破損した跡が現在も残っており、その傷跡が空襲の激しさを今に伝えています。
 戦前の内宮参道と表門(昭和2年発行福濱村誌より)

          平成23年3月説明板設置


23 國清寺

焼失前の國清寺本堂の写真

國清寺は、慶長14年(1609年)に池田利隆が池田家菩提寺として建立した法源寺を起源とし、利隆の父である輝政の死去にともない、輝政の法号である國清院殿を寺名に改めました。境内にある梵鐘(つり鐘)は、寛文5年(1665年)に京都の藤原國次によって製作された名鐘で、戦時中には金属供出の対象とされながらも、直前で供出を免れた歴史あるものです。昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山空襲により、本堂をはじめ多くの建物を焼失しましたが、山門、大愚堂、鐘楼などは焼失を免れ、戦後、当分の間は大愚堂を本堂として使いながら、徐々に建物は復興されていきました。本堂の石畳に残された焼け跡は空襲の激しさを物語り、また、現存する梵鐘は、戦争当時の事実を伝える貴重な資料となっています。
 焼失前の國清寺本堂
         平成24年3月説明板設置


岡山空襲を伝える場所を探しています!

岡山市では、岡山空襲の惨状を伝える建築物などに説明板の設置を進めており、現在23か所に設置しています。
 新たに説明板を設置する場所を検討していますので、何か情報がありましたら、下記まで連絡してください。

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