岡山市民の文芸
随筆 −第15回(昭和58年度)−


岩燕 高塚 たか子


 「ああ蕨だったら田んぼの畦になんぼでも生えていますよ。」
 「ほんと?」と喜んで予約して泊りに来たのはもう十数年の昔になる。
 国道五十三号線を一路津山へ、院庄から一七九号線を北上、奥津渓谷を左手に見ながら緑の山峡を、奥津温泉から吉井川に沿って左に折れる。川幅は登るにつれて次第に細く岩がごろごろしている中を、澄み切った水が流れてゆく。人形峠と奥津の中程を左に入ると間もなく白い三階建の国民宿舎が端然と建っている。その玄関前のポーチの天井に岩燕が集団で巣を営んでいた。子燕が口を開けて母燕から餌を貰っている時など、何時までも見惚れたものだった。
 この夏、八月の下旬まで一月近く、津軽に病む老母の介抱にあけくれ、一時小康を得たので帰岡したあと、急に岩燕が見たく渓川の水音が聞きたくて問い合わすと空き部屋があると云う。岡山から夫の運転で九十九粁をゆっくり三時間近くかけて宿舎に着いた。
 玄関に入る時見上げた天井は新しくなり燕の巣は何処へやら。聞けば改築は昨年末で春燕が来た時はホースで水をかけ、巣作りを根くらべで防いだ由。岩燕もさぞ面喰った事だろう。玄関のポーチの上は諦めたのか、両側の軒下へお椀を半分にした形の巣が並んでいた。温泉はぬるめでゆっくり浸る。一面はガラス張りで明るく清潔な浴室に心まで溶けてゆくようなやすらぎにある。窓から見る人家は十数軒しかなく、茅葺の屋根も四・五軒ある静かな里である。透明に澄んだ光が漂い、鳥の声虫の声が流れて来る。
 津軽の母は八十四歳。脳軟化が進んで時間が分らず排泄の方もしくじり勝ちである。付き切りで世話をしている私が誰か分らない状態が続いている。毎夜のように六回位起こされ、疲れ切って母の傍らで転寝をした時、何か母の手が動いているのを感じ目覚めると、母は自分のタオルケットを引張って私にかけようとし、投げ出している私の手を痩せ衰えた手で擦ってくれているのだった。目を開けて、「有難う。」と云うと母もうれしそうに笑った。名前が思い出せなくても、きっと私の介抱が分ってくれていたのだ。
 夫にその話をしながら眺める空は、万緑の山にくぎられて狭いけれど青く澄んで、白雲がゆったり浮いている。夕陽がさして美しいかげりを見せながら北へ動いてゆく。岩燕の群も飛んでいる。今までも心身の疲れた時、この風光に幾度やすらぎを求めた事か。
 翌朝散歩に出た。山は朝霧がこめ路のほとりは、赤つめ草、白つめ草、露草など野の花が咲き、蕨の葉が風にゆれている。
 老人が草籠を背負い歩いて来る。高砂の翁のような白ひげの品のよい顔立に目が合い、にっこり笑って挨拶すると翁もにっこりして何か声をかけて呉れた。私は仕合せになり道を左に折れて、森林公園へ行く道を辿り、渓川のせせらぎを聞きに歩いて行った。



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